南予の中世城跡探訪6 忽那通著討ち死にの地 ―花瀬城跡―

2008年4月4日

 大洲盆地の南、国道56号大洲道路の大洲北只ICを下りた西側、ちょうど国立大洲青少年交流の家の東北に花瀬城は所在します。
 国立大洲青少年交流の家の裏山の山頂にも鴇ケ森(ときがもり)城という城跡があり、ここは戦国時代の領主大野直之の拠点の城だったとも伝えられ、遺構の規模も大きく堅固な構造を見ることができます。一方のこの花瀬城も、広い主郭の回りに帯曲輪がいくつか配され、縦・横の空堀も確認できますが、鴇ケ森城よりはやや地味な造りになっています。


  花瀬城跡

 戦国時代に肱川下流域では、毛利氏の支援を受けた河野氏の勢力伸張や、喜多郡内での領主間抗争などにより、争乱が続きました。天正7(1579)年には、河野氏が軍勢を派遣しこの地域で戦闘が生じたようです。そこには、忽那水軍の末裔忽那通著の姿もありました。しかし、この花瀬城での合戦において通著は討ち死にしてしまいます。そのことは、当時の確実な文書に見ることができます。同年4月20日付けで河野通直(牛福)は、通著の息子亀寿に宛て、親父式部少輔(通著)の討ち死にの忠義を讃え、ねぎらう旨の感状を出しています。(注:当ブログの昨年4/26記事参照)
 実は、この天正7(1579)年という年には、喜多・宇和郡域に対して、河野氏以外にも、長宗我部氏や大友氏ら周辺の勢力からの干渉が頻発しました。土居清良ら西園寺配下の軍勢が長宗我部勢の侵攻を阻止した岡本城(宇和島市三間町)の合戦、日振島(宇和島市)への大友配下の水軍の侵攻などが相次ぎました。南予各地で生じた戦乱の、ひとつの舞台となった城跡です。