調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第198回
2025.9.20

村田蔵六(大村益次郎)書状

幕府の軍備状況に皮肉

村田蔵六書状、1857(安政4)年5月4日付=県歴史文化博物館蔵
 村田蔵六と聞いて、すぐにどんな人物か思い浮かぶ方は、かなり歴史通かもしれない。戊辰戦争の際に軍事的手腕を発揮、明治維新に貢献した大村益次郎のことと聞くと、知っているという人は少し増えるのではなかろうか。
 蔵六は周防(山口県)の在村医の家に生まれ。大坂の緒方洪庵に蘭学を学び、洪庵の適塾では塾頭になっている。適塾からは多くの優れた医者が育っているが、蔵六は医学の道には進まず、1853(嘉永6)年に宇和島に出仕、藩士教育のかたわら「舶工須知(はくこうすち)」など、オランダ語の軍事科学書の翻訳をしている。また、宇和島藩が進めた蒸気船の建造にも関わり、1854(安政元)年には蒸気機関製作を担当する嘉蔵(前原巧山)等とともに長崎へ調査に行き、翌年にはその成果として洋式軍艦のひな型を製造、試運転に成功している。
 本資料は、蔵六が江戸に行き、宇和島藩の御用をつとめながら、幕府にも出仕するようになった1857(安政4)年に「大野様」に宛てて記した書状である。宛先の大野は、大野昌三郎のことで、蔵六に蘭学を学んでいた宇和島藩士。
 書状の冒頭には、江戸では洋式小銃であるゲベール銃の調練が盛んになったことが記される。しかし、江戸の空気は眠りこけたようなもので、調練は逃げ支度の遠馬のようなものだ。戦争するという緊張感がまるでない。戦争はあってはたまらぬ、なくて幸せといった感じである。蔵六の冷めた目が時代の空気を伝えている。
 次いで5月3日には、国持ち大名や溜間(たまりのま)詰めの大名に講武所の拝見が命じられたことを記す。大神宮様(老中阿部正弘)は、幕府の軍備が調っていると自慢げに講武所を見せているが、大神宮様の自分の神楽、つまりは福山藩の軍備はいまだに弓矢のうえ、旧態依然とした長沼流を用いているのだから、訳の分からぬ話である。
 蔵六は伊勢守である阿部正弘のことを伊勢神宮に例えながら、皮肉たっぷりに記している。書状からは、後に戊辰戦争で大活躍する人物の西洋の軍事科学の優位を見切った合理的精神が感じられる。

(学芸課長・井上淳)

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