石鎚画賛
熱狂する信者 理想の姿
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- 石鎚画賛、1874(明治7)年ごろ=個人蔵、県歴史文化博物館保管
霧がたちこめるなか、人を寄せつけないかのようにそびえ立つ山。四国最高峰、石鎚山を描いている。
本図を描いた林涛光(とうこう)については経歴が不明だが、小松藩絵師森田南涛の門人といわれている。南涛は「南湖、文晁を併せて天下の二老と称す」といわれるほどの名声を得ていた春木南湖に師事したことから、涛光も中国絵画に影響を受け、山水や花鳥を得意とした南画の系統の画家と考えられる。
本図の上部には、今治藩医であった半井梧庵(なからいごあん)により、以下の内容の賛が加えられている。1874(明治7)年7月8日、石鎚山上に安置する神像が讃岐の高松で鋳造され、石岡神社神官の玉井忠寛がそれを奉遷した。その時に諸国から集まった信者が熱狂して、拍手礼拝するとともに、雨が降るごとくさい銭を投じた。この話を聞いた涛光が想像してその様子を描き上げた。
本図を遠くから見ると一般的な山水画のようだが、近づくと豆粒のような小さい人間が石鎚山にたくさん取り付いていることに気づく。石鎚登拝のクライマックスともいえる一の鎖、二の鎖、三の鎖の急斜面を登る人々。「ナンマイダー」と唱えながら鎖を登る人々の声が聞こえくるようだ。
ところで、梧庵は、愛媛の代表的な地誌「愛媛面影」の著者としても知られるが、涛光はその挿絵を手がけている。また、梧庵が1872年に石鉄(いしづち)県から「地理図誌編輯御用掛」に任命された際には、やはり挿絵を描く画家として小松の林丑之助が雇用されている。この丑之助とは涛光の俗名であろう。そして、梧庵が石鎚神社の祠官(しかん)になると、2人で本図を生み出している。この名コンビにより幕末から明治初期にかけての愛媛の数々の名所が絵に遺されたことになる。
本図が描かれたころ、明治政府の神仏分離令を受けて、梧庵はこれまで神社を管理した前神寺に対して、神社の引き渡しを求める願書を提出している。多くの信者が神像を支持する姿が描かれた本図は、梧庵が考える石鎚山の理想的な姿を描き出したものともいえる。
本図を描いた林涛光(とうこう)については経歴が不明だが、小松藩絵師森田南涛の門人といわれている。南涛は「南湖、文晁を併せて天下の二老と称す」といわれるほどの名声を得ていた春木南湖に師事したことから、涛光も中国絵画に影響を受け、山水や花鳥を得意とした南画の系統の画家と考えられる。
本図の上部には、今治藩医であった半井梧庵(なからいごあん)により、以下の内容の賛が加えられている。1874(明治7)年7月8日、石鎚山上に安置する神像が讃岐の高松で鋳造され、石岡神社神官の玉井忠寛がそれを奉遷した。その時に諸国から集まった信者が熱狂して、拍手礼拝するとともに、雨が降るごとくさい銭を投じた。この話を聞いた涛光が想像してその様子を描き上げた。
本図を遠くから見ると一般的な山水画のようだが、近づくと豆粒のような小さい人間が石鎚山にたくさん取り付いていることに気づく。石鎚登拝のクライマックスともいえる一の鎖、二の鎖、三の鎖の急斜面を登る人々。「ナンマイダー」と唱えながら鎖を登る人々の声が聞こえくるようだ。
ところで、梧庵は、愛媛の代表的な地誌「愛媛面影」の著者としても知られるが、涛光はその挿絵を手がけている。また、梧庵が1872年に石鉄(いしづち)県から「地理図誌編輯御用掛」に任命された際には、やはり挿絵を描く画家として小松の林丑之助が雇用されている。この丑之助とは涛光の俗名であろう。そして、梧庵が石鎚神社の祠官(しかん)になると、2人で本図を生み出している。この名コンビにより幕末から明治初期にかけての愛媛の数々の名所が絵に遺されたことになる。
本図が描かれたころ、明治政府の神仏分離令を受けて、梧庵はこれまで神社を管理した前神寺に対して、神社の引き渡しを求める願書を提出している。多くの信者が神像を支持する姿が描かれた本図は、梧庵が考える石鎚山の理想的な姿を描き出したものともいえる。
(学芸課長・井上淳)
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