調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第206回
2026.1.24

嘉明と高虎 不仲の発端

早川長政書状(加藤嘉明宛)

早川長政書状(加藤嘉明宛)、1597(慶長2)年10月26日=県歴史文化博物館蔵
 関ケ原合戦の後、伊予半国ずつを知行した加藤嘉明と藤堂高虎。不仲だったという話を耳にしたことはないだろうか。本書状は、その発端にまつわるもの。
 慶長の役で、2人は水軍を率いて転戦。1597(慶長2)年7月15・16日の巨済島(唐島)沖の漆川梁(チルチョンリャン)海戦で、2人は勝利に貢献し、翌8月に豊臣秀吉から2人とも戦功を認められることになる。しかし、現地での具体的な評価は、また違う展開を見せた。高虎が軍目付(いくさめつけ)から「一番」と認定・称賛されたのに対し、嘉明は規律違反や非礼を非難・叱責(しっせき)されるという、対照的な評価となった。
 これに対し嘉明は、高虎が秀吉へ勝手に戦功を直接注進したとして、軍目付の早川長政・竹中重利や阿波の蜂須賀家政へ告発・非難し、巻き返しを図ろうとした。おそらく、帰国後の論功行賞を見据えてのことだろう。この時の早川からの返書が、本書状である。
 早川の意見はというと、奉行衆が見たままを注進するはずで、自分も同様に見たままを確かに上申するつもりだとして、特段問題視せず粛々と対応しているように見受けられる。
 同じ時の竹中や蜂須賀の返書では、嘉明の告発に一定の理解を示し、竹中にいたっては高虎の勝手を非難し、嘉明の腹立ちは当然で、手柄は明らかにするべきだと同調。その上で、政権として公正に評価されるはずだと、嘉明をなだめ諭している。
 しかし、早川の本書状からは、特に嘉明への配慮はうかがえず、あくまで正論のみで返している。政権としての公正さに重点を置いているかのようでもあり、同じ軍目付でも竹中の気遣いとは趣が異なる。彼らの性格や嘉明との距離感の違いが表れているのかもしれず、興味深い。
 最終的には翌年に2人とも加増されるが、海戦の直後に現地で示された具体的な評価が改められた様子はなく、長い確執を生むことになった。関ケ原合戦後の伊予折半時には協定を結ぶが、互いに領境を警戒し、あわや衝突という拝志騒動も起きた。
 伊予の大名同士、嘉明と高虎の不和の始まりとされる出来事を、生々しく伝える一通である。

(専門学芸員 山内治朋)

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