明石寺(西予)と四国へんろ絵図
巡拝の拠点 複数種発行

- 「四国へんろ絵図」(江戸時代、縦48.1cm、横36.3cm)=県歴史文化博物館蔵
本資料は四国八十八カ所霊場と遍路道などを描いた木版一枚刷りの四国へんろ絵図である。刊記に「四十三番札所」とあることから、四国霊場第43番札所の明石寺(西予市宇和町)周辺で作成されたものと考えられる。
四国の形は大きくデフォルメされ、上側は東(阿波)、下側は西(伊予)、左側に北(讃岐)、右側に南(土佐)を配置する。九州地方から四国を眺めたような縦長の構図となっている。
絵図の中央には仏像や高僧の頭上につるす天蓋(てんがい)の下に弘法大師御影を配す。周囲には四国霊場の札所、札所間の距離、城下、名所、国境、番所などが描かれ、一部に彩色が施されている。明石寺は「四十三あげいし寺」とある。
明石寺は縁起によると、円手院正澄という行者が中国伝来の千手観音菩薩(ぼさつ)像を祀(まつ)るため、当地に七堂伽藍を建立したのが起源とされる。その後、734(天平6)年に寿元という行者が紀州熊野から十二社権現を勧請。江戸時代後期には天台宗系修験道「本山(ほんざん)派」の拠点として栄えた。
明石寺周辺で発行された四国へんろ絵図は本図の他に「四国順拝御土産絵図」、「明石寺茶堂」、明石寺末寺の修験寺院名が記されたものなど、数種類が確認できる。
1800(寛政12)年の「四国遍礼(へんろ)名所図会」には、明石寺参拝後に訪れた卯之町(西予市宇和町)を「よき町なり」と紹介し、周辺に修験者が多かったことが記されている。
また、1804(文化元)年の「海南四州紀行」によると、明石寺の仁王門の前にあった茶堂では浄眼という人物が「上中下表具所」の看板を掲げ、弘法大師の御影をはじめさまざまな種類の土産物を遍路に売っていたことが記されている。
九州からの玄関口である八幡浜港近郊に位置する明石寺は、九州方面からの遍路にとって、順打ちの場合は結願所、逆打ちの場合は打ち始めの札所として、四国巡拝の重要な拠点であった。
四国へんろ絵図作成の背景には、明石寺の地理的な要因に加えて、宇和島街道の宿駅で明石寺の門前町であった卯之町の繁栄や、修験者による布教活動との関係性が注目される。
四国の形は大きくデフォルメされ、上側は東(阿波)、下側は西(伊予)、左側に北(讃岐)、右側に南(土佐)を配置する。九州地方から四国を眺めたような縦長の構図となっている。
絵図の中央には仏像や高僧の頭上につるす天蓋(てんがい)の下に弘法大師御影を配す。周囲には四国霊場の札所、札所間の距離、城下、名所、国境、番所などが描かれ、一部に彩色が施されている。明石寺は「四十三あげいし寺」とある。
明石寺は縁起によると、円手院正澄という行者が中国伝来の千手観音菩薩(ぼさつ)像を祀(まつ)るため、当地に七堂伽藍を建立したのが起源とされる。その後、734(天平6)年に寿元という行者が紀州熊野から十二社権現を勧請。江戸時代後期には天台宗系修験道「本山(ほんざん)派」の拠点として栄えた。
明石寺周辺で発行された四国へんろ絵図は本図の他に「四国順拝御土産絵図」、「明石寺茶堂」、明石寺末寺の修験寺院名が記されたものなど、数種類が確認できる。
1800(寛政12)年の「四国遍礼(へんろ)名所図会」には、明石寺参拝後に訪れた卯之町(西予市宇和町)を「よき町なり」と紹介し、周辺に修験者が多かったことが記されている。
また、1804(文化元)年の「海南四州紀行」によると、明石寺の仁王門の前にあった茶堂では浄眼という人物が「上中下表具所」の看板を掲げ、弘法大師の御影をはじめさまざまな種類の土産物を遍路に売っていたことが記されている。
九州からの玄関口である八幡浜港近郊に位置する明石寺は、九州方面からの遍路にとって、順打ちの場合は結願所、逆打ちの場合は打ち始めの札所として、四国巡拝の重要な拠点であった。
四国へんろ絵図作成の背景には、明石寺の地理的な要因に加えて、宇和島街道の宿駅で明石寺の門前町であった卯之町の繁栄や、修験者による布教活動との関係性が注目される。
(専門学芸員 今村賢司)
※キーボードの方向キー左右でも、前後の記事に移動できます。