和歌に生きた姫の遺品
金梨地隅切葵紋花生蒔絵硯箱
- 西条藩6代藩主の長女で、和歌に生きた鑑姫愛用の硯箱=江戸時代後期、県歴史文化博物館所蔵
丁寧に面取りした被蓋(あわせぶた)造りの硯(すずり)箱で、蓋の表には金梨地に西条藩松平家の家紋である「隅切葵(すみきりあおい)」と花生けが肉厚の高蒔絵(たかまきえ)で描かれている。
蓋を開けると、本体には左に硯と水滴(すいてき)、右に懸子(かけご)が収められている。純金粉が大量に使われた最高級品で、当時の蒔絵技術の高さが感じられる。硯箱を入れた外箱には、所用者の名前はないが、「結び柏」の文様が小さく朱書されている。
こうした文様は、現在でも皇室で使われており、御印(おしるし)という。江戸時代、大名家においても御印は、所用者を一目で識別するために、身の回りの品や衣裳などに入れて用いられてきた。
そこで、この御印というわずかな手がかりをもとに、別の資料と照合していくと、西条藩6代藩主松平頼謙(よりかた)の長女として1777(安永6)年に生まれた鑑姫(かがみひめ)の命名目録に「結び柏」が墨書されているのを見つけることができた。
鑑姫は琴を山田検校(けんぎょう)、和歌を清水浜臣、書を加藤千蔭と、それぞれ当時一流の人物に学んでいる。17歳の時に丹波園部藩主小出英筠(ふさもと)のもとに嫁いでいるが、9年後には離縁している。その後、30歳の時に出雲広瀬藩松平直寛と再婚するが、8年後には再び離縁となっている。
西条藩の江戸屋敷に戻った鑑姫は仏門に入り、水月尼と称し、和歌に打ち込んでいく。そして、清水光房、本間游清といった歌人との交遊の中で、万葉集を学ぶとともに、自らも多くの和歌をつくった。鑑姫は1851(嘉永4)年に75歳の天寿を全うするが、のこした和歌3千首余りは、5冊からなる「円恭院水月尼君遺歌集」としてまとめられている。
2度の離縁を経験した後、和歌を心の支えに生きた鑑姫。その生涯をたどると、おしゃれで個性的な構図の硯箱が、彼女にふさわしい遺品のように思えてくる。
蓋を開けると、本体には左に硯と水滴(すいてき)、右に懸子(かけご)が収められている。純金粉が大量に使われた最高級品で、当時の蒔絵技術の高さが感じられる。硯箱を入れた外箱には、所用者の名前はないが、「結び柏」の文様が小さく朱書されている。
こうした文様は、現在でも皇室で使われており、御印(おしるし)という。江戸時代、大名家においても御印は、所用者を一目で識別するために、身の回りの品や衣裳などに入れて用いられてきた。
そこで、この御印というわずかな手がかりをもとに、別の資料と照合していくと、西条藩6代藩主松平頼謙(よりかた)の長女として1777(安永6)年に生まれた鑑姫(かがみひめ)の命名目録に「結び柏」が墨書されているのを見つけることができた。
鑑姫は琴を山田検校(けんぎょう)、和歌を清水浜臣、書を加藤千蔭と、それぞれ当時一流の人物に学んでいる。17歳の時に丹波園部藩主小出英筠(ふさもと)のもとに嫁いでいるが、9年後には離縁している。その後、30歳の時に出雲広瀬藩松平直寛と再婚するが、8年後には再び離縁となっている。
西条藩の江戸屋敷に戻った鑑姫は仏門に入り、水月尼と称し、和歌に打ち込んでいく。そして、清水光房、本間游清といった歌人との交遊の中で、万葉集を学ぶとともに、自らも多くの和歌をつくった。鑑姫は1851(嘉永4)年に75歳の天寿を全うするが、のこした和歌3千首余りは、5冊からなる「円恭院水月尼君遺歌集」としてまとめられている。
2度の離縁を経験した後、和歌を心の支えに生きた鑑姫。その生涯をたどると、おしゃれで個性的な構図の硯箱が、彼女にふさわしい遺品のように思えてくる。
(学芸課長 井上 淳)
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