調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第10回
2017.11.24

嘉明ゆかりの寺で安置

木造阿弥陀如来立像

伊予国道後の浄念寺本尊と伝承される木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代、個人蔵、県歴史文化博物館保管)
 本像は伊予国道後(松山市)にあった浄念寺の本尊と伝承される木造阿弥陀如来立像(総高155cm)である。松山城を築いた加藤嘉明を輩出した加藤家にゆかりのある仏像として注目される。
 仏像研究家の武田和昭氏は、左手首から先が欠失しているが来迎印を結ぶ阿弥陀如来像と断定。髪の生え際が下方に湾曲し、両眼に水晶がはめ込まれている可能性が高いこと、腹部の衣がたるみを持たせている点などから、全体として理知的、写実的な表現で、鎌倉時代に制作されたものと指摘する。
 本像の台座裏には浄念寺第14代・明廓による文化3(1806)年の墨書銘がある。それによると同年、本像の台座を補修制作するため水洗したところ、天正9(1581)年の銘文が確認された。そこには浄念寺が伊予国湯之町(道後)に所在し、本像を所蔵していたことや、台座の作者名「助左衛門厨」などが記されており、明廓は昔のありさまを後世に示すため、旧台座の銘文を新しい台座に書き写したとある。
 また文化7(1810)年に、嘉明の子孫が藩主を務める水口藩が嘉明ゆかりの松山の寺社等に由緒調査を行った際、浄念寺が提出した書き付けが残っている。
 それによると、浄念寺はもともと三河国岡崎(愛知県)の長福院という浄土真宗の寺院で、永禄年間(1558~70年)に道後に移った僧正西が道場を開き、本山から木造仏の安置の許しをもらった天正14(1586)年ごろに寺号を浄念寺と改めたという。
 同じ三河出身の嘉明が入部した後は庇護を受け、弟の忠明が出家後に居住したと伝えられることも記されている。この天正年間に安置されていた木造仏が本像と考えられる。
 浄念寺は文政年間(1818~31年)に道後から木屋町に移転したとされ、終戦後の昭和21(1946)年に後継の住持がなく廃寺となる。本像は縁者によって今日まで大切に保管されてきたものである。

(専門学芸員 今村 賢司)

※キーボードの方向キー左右でも、前後の記事に移動できます。