調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第12回
2017.12.22

青年期の苦悩をつづる

空海の三教指帰

空海が24歳の時に執筆した「三教指帰」。写真は江戸時代の1697年の刊行本(県歴史文化博物館蔵)
 弘法大師空海が生まれたのは奈良時代の774(宝亀5)年。光仁・桓武天皇が即位して長岡京遷都、平安京遷都へ向けて時代が動き始める頃であった。
 空海は讃岐国(香川)で誕生し、父方は佐伯氏、母は阿刀氏。15歳で平城京に行き伊予親王の家庭教師であったおじの阿刀大足のもとで、儒教中心の学問に励んだ。当初から仏道修行のために中央に行ったのではなかったのである。
 当時は儒教を学ぶことで朝廷の役職に就き、中央官僚の道を歩むことができた。ところが、空海は大学に入るものの儒教主体の学問で人々を救えるのか悩みはじめ、結局、周囲の反対を押し切って大学を退学し山林修行の道に入っていく。
 若き空海は出身地の四国でも修行している。阿波国(徳島)の大瀧嶽、土佐国(高知)の室戸、そして伊予国(愛媛)の石鎚山と金山出石寺でも難行苦行したとされる。
 そして797(延暦16)年、空海は「三教指帰(さんごうしいき)」を著す。三教指帰とは三つの教えが指し帰するところの意で、儒教、道教、仏教のうち、仏教が優れていることを示した著作である。執筆した時、空海は24歳であった。
 儒教と中央官僚への道を捨てて仏道修行に入った空海に対し、親族からは「忠義」に背く行為だと指摘されるが、空海は三つの聖説(儒教、道教、仏教)のうちのいずれか一つに進むことで国家や親族に対する「忠義」になるのだと強く反発している。
 その後、空海は留学僧として唐に赴き、長安で恵果和尚に出会い、真言密教を学んで日本に持ち帰って国内に広めていく。そして高野山を開創し、京都の東寺の管理を任され、宮中にも真言密教を広めていった。空海は835(承和2)年に没するが、その後「弘法大師」の号が贈られ、現代に到るまで高僧として崇敬されている。
 しかし空海も青年期には周囲と人生の進むべき道について衝突し、苦悩した。その思いを一気に書きつづったのがこの「三教指帰」なのである。

(専門学芸員 大本 敬久)

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