調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第27回
2018.8.9

庶民生活 絵を添え記録

永井刀専の隣組回覧

永井刀専が作成した隣組回覧、昭和18(1943)年、県歴史文化博物館蔵
 隣組は戦時下の銃後を守るために、官主導でつくられた最末端の住民組織で、全国に町内会、部落会が整備された昭和15(1940)年、その下部組織として近隣の約10軒を単位に設けられた。食料・衣料・燃料などの生活物資の配給、出征兵士の歓送、バケツリレーなどの防火演習、戦時政策の宣伝普及など、隣組は住民生活のあらゆる面に深く関わり、それらの情報を伝達する回覧板が頻繁に回された。
 「トン トン トンカラリと 隣組」。岡本一平作詞・飯田信夫作曲の「隣組の歌」は昭和15年にラジオ番組の国民歌謡で放送され、当時の人々の愛唱歌になった。このように戦時中の庶民生活に密着し、大量に作成された隣組回覧であるが、いざ展示しようと探しても、破棄されたケースが多く、ほとんど現存していない。学芸員でも、めったにお目にかかれない幻の資料といえる。
 そうした中、風刺漫画や版画などで活躍した永井刀専の関係資料が寄贈され、整理していると大量の隣組回覧が出てきた。戦時下の刀専は、松山市三番町で印章店を営んでいた。その特技を生かして、自らが作成した罫線(けいせん)入りの用紙で、三班分の回覧を一手に書いていたのだ。残されているのは、昭和18年6月4日から20年5月4日までの577枚に及ぶ。
 掲載した回覧は18年9月29日のもので、米6kgに対し麦8kgに配給割合を変更することを伝えている。イラストでは、米は小さな升におさまっているが、麦は大きな升にあふれんばかり。どのように変更されたかは一目瞭然(りょうぜん)である。
 この回覧が回された昭和18年、山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で戦死するなど、戦局は悪化の一途をたどる。その後の回覧では米麦さえ確保できず、代替品しか配給されない日も増えていく。
 戦前の松山を描いた木版作品と同様、隣組回覧も自らが手がけた作品として、刀専は大切に保管していた。そのおかげで、戦時下の庶民の生活がイラストとともに記録された貴重な歴史資料がまた1つ、現在に伝わった。

(学芸課長 井上 淳)

 「永井刀専の隣組回覧」は、2009年3月に刊行された県歴史文化博物館「研究紀要」14号で詳しい内容を紹介している。

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