奮戦 亡父の武勇へ賛辞
河野通直の感状
- 河野通直が忽那亀寿に与えた感状=1579(天正7)年、県歴史文化博物館蔵
今から450年前の1568(永禄11)年、鳥坂峠付近(大洲市・西予市)で戦国伊予有数の大合戦といえる鳥坂合戦が起きる。道後河野氏と大津(大洲)宇都宮氏の対立に端を発したとみられる喜多郡(大洲市・内子町付近)の戦乱が、毛利氏や土佐一条氏も巻き込み、一大合戦へと発展した。この合戦は河野方の勝利で幕を閉じるが、戦後も喜多郡には河野氏に反発する勢力が残った。
それから11年後の1579(天正7)年、大津城の南1km余りの花瀬城付近(大洲市北只)で合戦が起きる。直後に河野通直が忽那亀寿に与えた感状(合戦などの戦功を賞する書き付け)がこの文書である。
文面には、河野方が利を失って敗北する中、忽那式部少輔(通著)が奮戦、討死したとある。後世の編さん物類によると、合戦の相手は長宗我部氏の支援を得た大野直之らの勢力ともいわれるが、実際のところは定かではない。通直は、亀寿の父通著の武勇と忠義に賛辞を送ったのである。
忽那氏は忽那諸島(松山市)を本拠とした国衆で、当時は河野氏配下に属していた。河野氏は、味方につけた地元喜多郡の勢力に命じて反対勢力を制圧させることもあったが、この時は道後からも軍勢を差し向けた。しかし、敗北を喫したのである。打ち続く戦乱の中で、時に激しい戦いに発展することもあった喜多郡の戦国乱世の一端を物語っている。
実はこの感状、河野氏の家譜「予陽河野家譜」に引用されており、署名の下には「御印」と記されていたため、花押の代わりに印が押されていたようにも解釈できた。しかし、原本であるこの感状を見ると、紛れもなく花押が筆記されている。原本を見ることの大切さを教えてくれる。
当館が収蔵する以前にも、1916(大正5)年には伊予史談会が調査し、「愛媛県編年史」にも採録されるなど存在自体は知られていたが、あまり顧みられることはなかった。2007年に南予の戦国時代がテーマの企画展を準備する中で、当館の収蔵品に加わり、ふたたび光を当てることができた。絶妙なタイミングでの資料とのうれしい出会いであった。
それから11年後の1579(天正7)年、大津城の南1km余りの花瀬城付近(大洲市北只)で合戦が起きる。直後に河野通直が忽那亀寿に与えた感状(合戦などの戦功を賞する書き付け)がこの文書である。
文面には、河野方が利を失って敗北する中、忽那式部少輔(通著)が奮戦、討死したとある。後世の編さん物類によると、合戦の相手は長宗我部氏の支援を得た大野直之らの勢力ともいわれるが、実際のところは定かではない。通直は、亀寿の父通著の武勇と忠義に賛辞を送ったのである。
忽那氏は忽那諸島(松山市)を本拠とした国衆で、当時は河野氏配下に属していた。河野氏は、味方につけた地元喜多郡の勢力に命じて反対勢力を制圧させることもあったが、この時は道後からも軍勢を差し向けた。しかし、敗北を喫したのである。打ち続く戦乱の中で、時に激しい戦いに発展することもあった喜多郡の戦国乱世の一端を物語っている。
実はこの感状、河野氏の家譜「予陽河野家譜」に引用されており、署名の下には「御印」と記されていたため、花押の代わりに印が押されていたようにも解釈できた。しかし、原本であるこの感状を見ると、紛れもなく花押が筆記されている。原本を見ることの大切さを教えてくれる。
当館が収蔵する以前にも、1916(大正5)年には伊予史談会が調査し、「愛媛県編年史」にも採録されるなど存在自体は知られていたが、あまり顧みられることはなかった。2007年に南予の戦国時代がテーマの企画展を準備する中で、当館の収蔵品に加わり、ふたたび光を当てることができた。絶妙なタイミングでの資料とのうれしい出会いであった。
(専門学芸員 山内 治朋)
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