幕府・藩挙げての事業
元禄伊予国絵図(宇和郡)
- 宇和島藩が作成した「元禄伊予国絵図(宇和郡)」の控図=1702(元禄15)年、県歴史文化博物館蔵
江戸幕府が全国の諸大名に命じて作らせた旧国単位の地図を「国絵図」という。作成された時期ごとに、その元号で呼ばれるが、伊予では慶長図が伝わっていないので、最も古い国絵図は寛永図となる。
寛永伊予国絵図は、縦横2m足らずで、伊予の形は佐田岬が南に垂れ下がり、宇和海の海岸部も激しく屈曲している。正保図以降は、縮尺が1里6寸(約2万1600分の1)と定められ、町村の描き方などの書式の統一も図られる。東西、南北ともに長く、島しょ部も含む伊予国絵図は縦横とも7mを超え、国絵図の中でも最大であった。この巨大絵図がどのように作られたのか、作成過程が宇和島藩の記録で分かる元禄図を例に紹介する。
元禄10(1697)年閏(うるう)2月4日、主要大名の江戸留守居が幕府評定所に集められ、国絵図の作成が命じられる。八つの藩に分かれていた伊予の場合、松山藩・宇和島藩・大洲藩・今治藩が共同で作成する「相持」で、松山藩が各藩から提出された絵図を一国にまとめることになっている。
土佐藩との間で国境争いがあった宇和島藩では、幕府の裁許結果が描かれた絵図を江戸に送るとともに、国境の表現について土佐藩と調整している。他藩と調整して作成された部分図が、松山藩により一国に仕立てられ、幕府の国絵図担当者の点検を経た上で、幕府の御用絵師である狩野良信が清書に当たっている。
その清書代は銀21貫437匁(もんめ)余で、現在のお金に換算すると約1億円になる。下絵図作成にも多額の経費を要したはずで、国絵図の作成が幕府・藩を挙げての国家プロジェクトであったことがうかがえる。
伊予国絵図の幕府への献上は、元禄13年6月22日。3年余りを要した国絵図作成は終わったが、各藩では、次の改訂に備えて控図も作成しなければならなかった。ここに掲載した絵図は、その2年後に宇和島藩が作成した宇和郡部分の控図である。美麗な極彩色の表現などは、献上図と共通する部分も多く、控図とはいえ、国絵図の豪華さを伝える貴重な史料といえる。
寛永伊予国絵図は、縦横2m足らずで、伊予の形は佐田岬が南に垂れ下がり、宇和海の海岸部も激しく屈曲している。正保図以降は、縮尺が1里6寸(約2万1600分の1)と定められ、町村の描き方などの書式の統一も図られる。東西、南北ともに長く、島しょ部も含む伊予国絵図は縦横とも7mを超え、国絵図の中でも最大であった。この巨大絵図がどのように作られたのか、作成過程が宇和島藩の記録で分かる元禄図を例に紹介する。
元禄10(1697)年閏(うるう)2月4日、主要大名の江戸留守居が幕府評定所に集められ、国絵図の作成が命じられる。八つの藩に分かれていた伊予の場合、松山藩・宇和島藩・大洲藩・今治藩が共同で作成する「相持」で、松山藩が各藩から提出された絵図を一国にまとめることになっている。
土佐藩との間で国境争いがあった宇和島藩では、幕府の裁許結果が描かれた絵図を江戸に送るとともに、国境の表現について土佐藩と調整している。他藩と調整して作成された部分図が、松山藩により一国に仕立てられ、幕府の国絵図担当者の点検を経た上で、幕府の御用絵師である狩野良信が清書に当たっている。
その清書代は銀21貫437匁(もんめ)余で、現在のお金に換算すると約1億円になる。下絵図作成にも多額の経費を要したはずで、国絵図の作成が幕府・藩を挙げての国家プロジェクトであったことがうかがえる。
伊予国絵図の幕府への献上は、元禄13年6月22日。3年余りを要した国絵図作成は終わったが、各藩では、次の改訂に備えて控図も作成しなければならなかった。ここに掲載した絵図は、その2年後に宇和島藩が作成した宇和郡部分の控図である。美麗な極彩色の表現などは、献上図と共通する部分も多く、控図とはいえ、国絵図の豪華さを伝える貴重な史料といえる。
(学芸課長 井上 淳)
元禄伊予国絵図(宇和郡)は、絵図・絵巻デジタルアーカイブに高精細画像で公開中。
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