調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第35回
2018.12.7

遺物多様 生活安定示す

丘の上の半田山遺跡

西条市半田山遺跡から出土した遺物。(左上から時計回りに)高坏(たかつき)、壺(つぼ)、土錘、石錘、石庖丁、鉄製品、石鏃=弥生時代中~後期、県歴史文化博物館保管
 西条市から四国中央市にかけての燧灘を望む丘陵部には、約2千年前(弥生時代中期~後期)に多くの集落遺跡があったことが松山自動車道建設に伴う発掘調査によって分かっている。
 現在の西条インターチェンジ付近にあたる半田山遺跡では、標高120m前後の地点で、約20棟の住居(竪穴建物)跡、約30棟の倉庫(高床建物)跡が見つかっている。出土した土器から、これらの建物は一時期に集中して作られたのではなく、数世帯の家族が継続して暮らしたムラの跡であると考えられている。
 この時代の人々はどうしてこのような場所で暮らしたのであろうか?発見された遺物には、土器の他に稲穂を摘む石庖丁、魚を獲る網に付けた土や石製のおもり(土錘・石錘)、石や鉄製のやじり(石鏃・鉄鏃)など多種類のものがあり、丘の上でも安定した生活が営まれていたことが想定できる。
 従来、このような遺跡は「高地性集落」と呼ばれ、中国の歴史書「魏志倭人伝」に記述がある「倭国(わこく)大乱」と関連して戦いに備えた防御的なムラというのが定説であった。
 しかし近年の研究では、このような丘陵や台地、山頂や山腹に立地する集落を「山住みの集落」と呼ばれ、平地と同じように安定した生活が営まれていたことが想定され、防御的なムラという定説の再検討が迫られている。水などの生活必需品を手に入れにくい丘陵部になぜ住まいを作ったのであろうか? 現在の考古学でも未解明な課題の一つである。
 展示室で出土した資料や復元イラスト、模型を見ながら約2千年前の祖先のくらしに思いを馳せてみるのはいかがだろうか?

(専門学芸員 冨田 尚夫)

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