多様な漁法で使い分け
縄文時代の漁労具
- 今治市の萩ノ岡貝塚で発見された漁労具。上が石錘、右下はヤス状刺突具、左下は釣り針=縄文時代後期後葉~晩期前葉(約3千年前)、県歴史文化博物館蔵
四方を海に囲まれた日本列島。人々がその豊かな海産資源を本格的に利用しはじめたのは縄文時代で、以来日本の食文化に欠かせないものとなっていく。縄文時代には釣漁・刺突漁・網漁など多様な漁法が確立し、県内の縄文遺跡からも漁労活動を支える道具類が多く出土している。
写真は今治市上浦町井口の萩ノ岡貝塚で発見された漁労具を並べたもの。シカの角や骨を加工して作った釣り針や魚を突いて捕らえるヤス状刺突具、漁網の石錘(せきすい、重り)で、今から約3千年前のものと考えられている。
このうち釣り針2点は、どちらも針先の部分が欠損しているが、J字形となる単式釣り針と考えられ、釣り糸を結ぶ頭部はノブ状の突起となっている。全長は5cm前後で、全国的な出土事例と比較すると中~大型の部類に入る。県内では西条市禎瑞や西予市明浜町で発見されているが、その数は少ない。
では、こうした漁労具を用いてどのような魚を捕っていたのだろうか。今回、館外研究者の協力を得て、萩ノ岡貝塚で採集された魚骨185点を分析した。その結果、マダイ亜科が69点と最も多く、これにハタ科が48点、カワハギ科が29点と続き、この3種類で全体の約80%を占めることが分かった。
いずれも岩礁域を好む魚種であるが、マダイに関しては、成魚になるにつれて沿岸部の浅い所から沖合に移っていく。萩ノ岡貝塚のマダイは体長50cm前後と推定され大型の成魚が多いことから、ここに暮らした縄文人たちは、遺跡近くの岩礁域の浅瀬から沖合の深場まで幅広い水域で漁獲していたことがうかがえる。
そして魚種ごとの習性や漁獲最適期、漁場などを熟知した上で、複数の漁法・漁具を効果的に使い分け、豊かな海の恵みを享受していたのであろう。
写真は今治市上浦町井口の萩ノ岡貝塚で発見された漁労具を並べたもの。シカの角や骨を加工して作った釣り針や魚を突いて捕らえるヤス状刺突具、漁網の石錘(せきすい、重り)で、今から約3千年前のものと考えられている。
このうち釣り針2点は、どちらも針先の部分が欠損しているが、J字形となる単式釣り針と考えられ、釣り糸を結ぶ頭部はノブ状の突起となっている。全長は5cm前後で、全国的な出土事例と比較すると中~大型の部類に入る。県内では西条市禎瑞や西予市明浜町で発見されているが、その数は少ない。
では、こうした漁労具を用いてどのような魚を捕っていたのだろうか。今回、館外研究者の協力を得て、萩ノ岡貝塚で採集された魚骨185点を分析した。その結果、マダイ亜科が69点と最も多く、これにハタ科が48点、カワハギ科が29点と続き、この3種類で全体の約80%を占めることが分かった。
いずれも岩礁域を好む魚種であるが、マダイに関しては、成魚になるにつれて沿岸部の浅い所から沖合に移っていく。萩ノ岡貝塚のマダイは体長50cm前後と推定され大型の成魚が多いことから、ここに暮らした縄文人たちは、遺跡近くの岩礁域の浅瀬から沖合の深場まで幅広い水域で漁獲していたことがうかがえる。
そして魚種ごとの習性や漁獲最適期、漁場などを熟知した上で、複数の漁法・漁具を効果的に使い分け、豊かな海の恵みを享受していたのであろう。
(専門学芸員 兵頭 勲)
萩ノ岡貝塚については、2019年3月に刊行された愛媛県歴史文化博物館「資料目録」第27集で詳しく紹介している。
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