調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第45回
2019.5.3

大伴旅人 梅花宴の序文

「万葉集」巻五 「令和」の出典

新元号「令和」の出典となった「万葉集」巻五。左から2行目に「令」「和」の文字がある=奈良時代成立、1805年刊、県歴史文化博物館蔵
 (2019年5月)1日、新元号「令和」の時代が始まった。その出典は現存最古の和歌集「万葉集」巻五の「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香を薫(くゆ)らす」(初春の素晴らしい月、空気は澄み、風は和らぎ、梅は鏡前のように白く咲き、蘭は袋の中のように薫っている、の意)であると公表されている。
 この文章は、730(天平2)年正月に九州・大宰帥(だざいのそち=大宰府の長官)の大伴旅人(おおとものたびと)邸で盛大な梅花宴が開かれ、参加者が披露した32首の和歌を列挙したその序文である。旅人が中国の六朝風漢文で記したものとされ、江戸時代の国学者・契沖(けいちゅう)が王羲之(おうぎし)の「蘭亭集序」に倣ったものと指摘し、通説化している。
 旅人は665年に旧来の大豪族・大伴氏に生まれ、726(神亀3)年に大宰府に赴任し、帰京して大納言にまで登り詰めるも、梅花宴の翌年、731(天平3)年に没している。
 当時、政権の中枢を担っていたのは藤原房前(ふささき)をはじめとする藤原四兄弟であり、旅人は藤原氏の策略によって九州に追いやられたとの説もある。同時期には藤原四兄弟の異母妹・光明子を夫人に持つ聖武天皇の皇統を強化させるため、左大臣の長屋王を排除した政変も起こっている。
 このような政情の中、都から遠く離れた九州の旅人邸で開かれた梅花宴に集まったのは、大宰府の官人21人と九州各国の国司等11人の計32人であった。藤原氏に追いやられた旅人のもとに九州の多くの高官が集合しており、その中には当時、筑紫守(筑紫国の長官)であった万葉歌人の代表、山上憶良も含まれているが、この宴が梅の和歌を披露する牧歌的な場でもあると同時に政治情報を交換するきな臭い場でもあった可能性もある。
 さて、旅人の序文であるが「令和」の梅花の文は起承転結でいえば「起」にあたる。あとの「承転結」部分は「早朝の山々に雲が移り、夕方の谷間に霧が立ち込め鳥が迷う。庭に蝶(ちょう)が舞い、鴈(がん)が空を飛ぶ。天を覆いとし、地を座席として盃を酌み交わし、梅の歌を作ろう」と近景、遠景が大胆に描き込まれる。「令和」の出典部分に限らず、「万葉集」には魅力的な和歌、文章が満載されており、この改元を機会に原文に触れてみてはいかがだろうか。

(専門学芸員 大本 敬久)

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