旧本壇石垣は6メートル高く
松山城の復元イラスト
- ㊤近年発見された史料をもとに香川元太郎さんが描いた江戸初期の松山城イラスト㊦城本壇部分の拡大。現在のものより6m高い石垣が築かれていた=初出は2018年発行の「歴史群像」147号(学研プラス)、県歴史文化博物館蔵
博物館で仕事をしていて、いつも頭を悩ませるのは、どうしたら展示が分かりやすくなるかということ。歴史系の博物館では、よく古文書を展示するが、くずし字を解読したものや、読み下したパネルを脇に置いても、それ自体が既に難しい。ビジュアルな絵図にしても、姿図になっていないと当時の情景が頭に浮かばないという人も多いのではなかろうか。
ところで先般、松山市出身のイラストレーター香川元太郎さんと一緒に仕事をする機会を得た。ある雑誌の依頼で、香川さんが松山城の復元イラストを描くことになり、その時代考証の協力を頼まれたのだ。松山城は天守をはじめ21棟の建造物が国指定重要文化財として保存されているので、描くのは比較的簡単と思われるかもしれないが、香川さんは江戸時代初期の松山城の姿を描きたいとのこと。
近年、その頃の松山城を描いた絵図が相次いで発見され、本壇(天守がある曲輪)の姿が現在とは異なっていたことが明らかになった。そのことが最もよく分かる絵図が、松山城を築城した加藤嘉明の子孫が藩主になった、水口(滋賀県甲賀市)に遺されていた「与州松山本丸図」である。
松山城の現在の本壇は、直角の方形を基調にしているのに対して、本丸図の本壇は多角形の形状で描かれている。絵図には石垣の幅や高さなども細かく記されているが、これらの数値を検討することで、旧本壇が現本壇よりも6m高い約16mの石垣が築かれ、傾斜角も約53度と緩やかであったことが指摘されている。
その複雑な形状の旧本壇は、西高東低の2段に分かれており、下段の東側には南から入る外枡形の虎口(こぐち)があるものの、建物は見当たらない。一方、西側には中央に貯水池があり、それを取り囲むようにいくつかの建物がある。最終的には、幕府隠密が1627(寛永4)年に松山を偵察して描いた絵図を参考に、西側は池の周辺に5棟の二重櫓(やぐら)を配置するプランでイラストが作成された。
イラスト原画は雑誌掲載後、香川さんのご厚意により県歴史文化博物館に寄贈され、復元のもとになった史料とともに、開催中の特別展「瀬戸内ヒストリア」で(2019年)11月24日まで展示されている。細密な復元イラストが加わることで、松山城本壇の移り変わりを分かりやすく展示できたので、ぜひご覧いただきたい。
ところで先般、松山市出身のイラストレーター香川元太郎さんと一緒に仕事をする機会を得た。ある雑誌の依頼で、香川さんが松山城の復元イラストを描くことになり、その時代考証の協力を頼まれたのだ。松山城は天守をはじめ21棟の建造物が国指定重要文化財として保存されているので、描くのは比較的簡単と思われるかもしれないが、香川さんは江戸時代初期の松山城の姿を描きたいとのこと。
近年、その頃の松山城を描いた絵図が相次いで発見され、本壇(天守がある曲輪)の姿が現在とは異なっていたことが明らかになった。そのことが最もよく分かる絵図が、松山城を築城した加藤嘉明の子孫が藩主になった、水口(滋賀県甲賀市)に遺されていた「与州松山本丸図」である。
松山城の現在の本壇は、直角の方形を基調にしているのに対して、本丸図の本壇は多角形の形状で描かれている。絵図には石垣の幅や高さなども細かく記されているが、これらの数値を検討することで、旧本壇が現本壇よりも6m高い約16mの石垣が築かれ、傾斜角も約53度と緩やかであったことが指摘されている。
その複雑な形状の旧本壇は、西高東低の2段に分かれており、下段の東側には南から入る外枡形の虎口(こぐち)があるものの、建物は見当たらない。一方、西側には中央に貯水池があり、それを取り囲むようにいくつかの建物がある。最終的には、幕府隠密が1627(寛永4)年に松山を偵察して描いた絵図を参考に、西側は池の周辺に5棟の二重櫓(やぐら)を配置するプランでイラストが作成された。
イラスト原画は雑誌掲載後、香川さんのご厚意により県歴史文化博物館に寄贈され、復元のもとになった史料とともに、開催中の特別展「瀬戸内ヒストリア」で(2019年)11月24日まで展示されている。細密な復元イラストが加わることで、松山城本壇の移り変わりを分かりやすく展示できたので、ぜひご覧いただきたい。
(学芸課長 井上 淳)
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