調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第59回
2019.12.13

宛先で筆跡を変える?

加藤嘉明の自筆書状

加藤嘉明の自筆書状。宛先は不明。家臣に関する私信で、筆跡に嘉明独特の癖が表れている。=江戸時代初期、県歴史文化博物館蔵
 賤ケ岳の七本槍の一人として知られ、豊臣秀吉の出世に貢献するとともに、松山藩の礎も築いた加藤嘉明。秀吉から何通もの文書を受け取ったことは言うまでもなく、当館でも嘉明宛て朱印状を所蔵し、本連載でも以前に紹介した。
 一方、嘉明からも大名や家臣へ書状などが発給された。大名が文書を発給する場合、右筆(ゆうひつ)と呼ばれる書記役が筆記して、花押(かおう)と呼ばれるサインだけを自身で書き込むことが多い。しかし、親しい人物の場合、自分自身で筆記する書状も発給された。本資料は、そうした自筆書状の一通で、宛先不明だが、ある家臣に宛てたものと思われる。
 当事者間だけで通じる簡潔な私信のため内容の詳細は分かりづらいが、須賀喜太郎に守岡・榊原・伊崎の3人のうちの誰かを呼ばせることにしたという家臣の報告に対して、熟慮して選定するよう指示した内容である。
 日付の下には署名と花押がある。嘉明は何度か実名と花押を変えている。近年、初期の実名が房次であったことが判明したため、房次→茂勝→吉明→嘉明と改名したことが分かっている。花押も生涯で5種類使用しているが、本資料は、嘉明を名乗り、最後の花押を使用していることから、江戸時代初期のものと考えられる。
 ところで、花押をめぐり気になることがある。実はこの最後の花押、秀吉の花押に似た印象を受けるのだ。江戸時代になると徳川家に倣った形を用いる大名が増えてくるが、逆に秀吉の花押に似た形になっていることは、偶然なのかもしれないが興味深い。
 筆跡に目をやると、自筆のためか特徴的な筆致や筆の硬さなど独特の癖が表れている。家臣に宛てた他の自筆書状と同様の特徴が見て取れる。ところが、当館所蔵のもう一通の丹波園部藩主小出吉親宛ての自筆書状を見ると、柔らかく丁寧な異なる印象を受ける。もしかすると、宛先が大名か自らの家臣かによって筆跡を変えていたのだろうか。
 あくまで印象にすぎないものの、嘉明の主義主張が隠されているようでもあり、自筆書状への興味、観察する楽しみは尽きないのである。

(専門学芸員 山内 治朋)

 愛媛新聞への掲載時には、加藤嘉明の花押について3種類としたが、近年になり新資料の発掘が進んだことで、5種類と訂正を加えている。なお、嘉明の花押の類型については、2022年3月刊行の県歴史文化博物館「研究紀要」第27号に論考として記している。

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