家臣へ生活感漂う私信
蒲生忠知の自筆書状
- 蒲生忠知の自筆書状。今から帰る旨や風呂の指示などが記されている。=江戸時代初期、県歴史文化博物館蔵
加藤嘉明が松山から会津へ国替えになった1627(寛永4)年、入れ替わりに会津から松山へ入部したのが、戦国武将蒲生氏郷の孫、蒲生忠知である。会津藩60万石藩主の兄忠郷が同年に嗣子なく没したため、忠知が跡を継ぎ、24万石に減封のうえで松山へ国替えとなった。しかし、忠知もまた34(同11)年に治世7年にして嗣子なく没し、蒲生家は断絶する。そのため、忠知に関する資料は少ない。本資料は、その中でも極めてまれな本人自筆の書状である。
今から帰ることを家臣の町田太郎右衛門から他の家臣に伝えさせるとともに、風呂を急ぎたかせることも指示している。短文で、墨消しで訂正したままの部分もあり、親しい間柄での取り急ぎの連絡だった様子をうかがわせる。忠知や町田らがどこに居たのか、また口頭伝達でも事足りそうな内容をなぜわざわざ書面にしたのかなど、いろいろ疑問も湧いてくるが、残念ながら詳細はよく分からない。
とはいえ、政治的な内容ではなく、簡潔な伝達を自筆で行った私信であり、風呂の指示も添えるなど、日常の生活感が漂う珍しい資料である。
書状の本紙には日付も差出人も宛名もないが、本紙の右に宛名と差出人を記した包紙の一部とみられるものが付属する。差出人は「中書」とあるが、これは忠知の官途名の「中務大輔」を中国風に記したもの。宛先の町田太郎右衛門は、1000石の家臣で、忠知時代の松山城下を描いた「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」(県歴史文化博物館蔵)を見ると、三之丸東御門を入って北側、当時藩主の御殿があった二之丸に堀をはさんで南面する要所に屋敷がある。城下の南には下屋敷も持っていた。信頼を置く家臣の一人だったのだろう。
忠知の発給文書としては他に右筆と呼ばれる書記役が書いた知行宛行状を所蔵しているが、自筆となるとなかなか目にすることはない。そのため、比較検討が難しく、分からないことも多い。今後、類例が発見、蓄積され、謎多き忠知像の解明につながっていくことを期待したい。
今から帰ることを家臣の町田太郎右衛門から他の家臣に伝えさせるとともに、風呂を急ぎたかせることも指示している。短文で、墨消しで訂正したままの部分もあり、親しい間柄での取り急ぎの連絡だった様子をうかがわせる。忠知や町田らがどこに居たのか、また口頭伝達でも事足りそうな内容をなぜわざわざ書面にしたのかなど、いろいろ疑問も湧いてくるが、残念ながら詳細はよく分からない。
とはいえ、政治的な内容ではなく、簡潔な伝達を自筆で行った私信であり、風呂の指示も添えるなど、日常の生活感が漂う珍しい資料である。
書状の本紙には日付も差出人も宛名もないが、本紙の右に宛名と差出人を記した包紙の一部とみられるものが付属する。差出人は「中書」とあるが、これは忠知の官途名の「中務大輔」を中国風に記したもの。宛先の町田太郎右衛門は、1000石の家臣で、忠知時代の松山城下を描いた「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」(県歴史文化博物館蔵)を見ると、三之丸東御門を入って北側、当時藩主の御殿があった二之丸に堀をはさんで南面する要所に屋敷がある。城下の南には下屋敷も持っていた。信頼を置く家臣の一人だったのだろう。
忠知の発給文書としては他に右筆と呼ばれる書記役が書いた知行宛行状を所蔵しているが、自筆となるとなかなか目にすることはない。そのため、比較検討が難しく、分からないことも多い。今後、類例が発見、蓄積され、謎多き忠知像の解明につながっていくことを期待したい。
(専門学芸員 山内 治朋)
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