発展途上 近世の面影も
大正初期の松山市街図
- 1913年に発行された松山市全図=県歴史文化博物館蔵
- ㊤一番町~三番町、南堀端町付近の拡大 ㊦松山城東部の拡大。二つの鉄道や、城の防御施設だった堀、砂土手があったのが分かる
今回紹介するのは大正初期の松山市街図である。同市は1889(明治22)年に全国で39番目の市として市制を施行した。当時の人口は約3万3千。以来四半世紀、人口も5万をうかがう規模となっていた。近代都市松山の様子を地図で見てみよう。
地図の中心にあるのが松山城。1886(明治19)年に陸軍省所管となり、原則登山は禁止された。しかし1910(同43)年に松山市が無償で貸与を受け「松山公園」として開放された。麓の堀之内には歩兵第22連隊が駐屯していた。軍事機密ともいえる兵舎の位置が詳細に描かれており、時代に余裕を感じる。
街並みに目を転じると、一番町には1909(明治42)年に建設された洋風2階建ての県庁舎がそびえていた。二番町には夏目漱石が英語を教えた松山中学校(現松山東高校)や第一尋常小学校(現番町小学校)が、三番町には劇場寿座(後の国伎座)や五十二銀行(現伊予銀行)があった。また南堀端町には海南新聞社(現愛媛新聞社)、出淵町(現三番町6丁目付近)には市庁舎、榎町(同4丁目付近)には温泉郡役所があった。
次に鉄道に注目してみよう。一番町から道後へ向けて二つの線路が出ている。どういうことだろう。一つは三津浜の江ノ口~萱町~南堀端~一番町~道後を結ぶ「松山電気軌道」。もう一つは古町~道後~一番町を結ぶ「伊予鉄道」。路線の重なる一番町~道後で両者は誘客の激戦を演じた。1921(大正10)年、伊予鉄道が松山電気軌道を合併し、経営を強化する。
城山の東部をよく見ると、松山電気軌道の左手にクランクの形をした池がある。また、伊予鉄道の右手には南北に土手がある。これは松山城の防御施設として築かれた念斎堀と砂土手である。このあたりはまだ耕地が広がっている。1916(大正5)年に松山中学校が二番町から持田へ移転、続いて1919(同8)年に松山高校(現愛媛大学)が持田に新設された頃から持田・南町方面の宅地化が進む。
この地図は、近世の面影を残しながらも、愛媛県における政治・経済・軍事の中心都市として発展途上にある松山市街をさまざまな情報を含めて表している。
地図の中心にあるのが松山城。1886(明治19)年に陸軍省所管となり、原則登山は禁止された。しかし1910(同43)年に松山市が無償で貸与を受け「松山公園」として開放された。麓の堀之内には歩兵第22連隊が駐屯していた。軍事機密ともいえる兵舎の位置が詳細に描かれており、時代に余裕を感じる。
街並みに目を転じると、一番町には1909(明治42)年に建設された洋風2階建ての県庁舎がそびえていた。二番町には夏目漱石が英語を教えた松山中学校(現松山東高校)や第一尋常小学校(現番町小学校)が、三番町には劇場寿座(後の国伎座)や五十二銀行(現伊予銀行)があった。また南堀端町には海南新聞社(現愛媛新聞社)、出淵町(現三番町6丁目付近)には市庁舎、榎町(同4丁目付近)には温泉郡役所があった。
次に鉄道に注目してみよう。一番町から道後へ向けて二つの線路が出ている。どういうことだろう。一つは三津浜の江ノ口~萱町~南堀端~一番町~道後を結ぶ「松山電気軌道」。もう一つは古町~道後~一番町を結ぶ「伊予鉄道」。路線の重なる一番町~道後で両者は誘客の激戦を演じた。1921(大正10)年、伊予鉄道が松山電気軌道を合併し、経営を強化する。
城山の東部をよく見ると、松山電気軌道の左手にクランクの形をした池がある。また、伊予鉄道の右手には南北に土手がある。これは松山城の防御施設として築かれた念斎堀と砂土手である。このあたりはまだ耕地が広がっている。1916(大正5)年に松山中学校が二番町から持田へ移転、続いて1919(同8)年に松山高校(現愛媛大学)が持田に新設された頃から持田・南町方面の宅地化が進む。
この地図は、近世の面影を残しながらも、愛媛県における政治・経済・軍事の中心都市として発展途上にある松山市街をさまざまな情報を含めて表している。
(専門学芸員 平井 誠)
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