調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第79回
2020.10.16

予土国境 所領給付示す

御庄基経知行目録

御庄基経知行目録(1587年、県歴史文化博物館蔵)
 かつて愛南町域には観自在寺荘という京都青蓮院門跡の荘園があった。そこは「御庄(御荘)」とも呼ばれ、土着した坊官は御庄氏を名乗り、戦国時代には土佐一条氏に仕える町氏が名跡を継ぎ、土佐勢力と深く結び付きながら独自の地域支配を展開した。
 本資料は、御庄権大夫基経から配下の尾崎藤兵衛尉政儀へ所領を給付した際、内訳を示した目録である。長らく所在不明だったが、ご縁があり収蔵品に加わった。「長洲」(愛南町)など11か所、合計2貫30文の所領が記されている。各箇条冒頭の「一ケ所」には合点が打たれており、おそらく現代でも欠かせない内容チェックの痕跡なのだろう。
 特徴的なのは右端に「御給」とあること。こうした文言は、一条氏から給付の承認を得た証しとして記されたと考えられている。しかし、本資料の場合、ことはそう簡単ではない。一条氏は、すでに1575(天正3)年に長宗我部氏に敗れ土佐を追われているのだ。そのため、写本等による考察から、実は本資料は一条氏時代のもので年号は後筆の誤記ではないかとの見方もあった。しかし、実物の筆跡等を見る限り、どうもそのようにも見えない。一条氏のいない時代に一条氏時代の書式を使ったということだろうか。
 1587(天正15)年当時の周辺大名を見ると、一条氏を凌駕(りょうが)した長宗我部氏は1585(天正13)年の四国平定で豊臣秀吉から土佐一国に封じ込められ、伊予を拝領した小早川氏も伊予南端まで支配が十分に行き届いていたようには見受けられない。当地は大名の実効支配が手薄だった可能性がある。もしかすると、承認を得るべき上位権力が不在の中で、国衆御庄氏が単独で所領給付を行い、何らかの意図により過去の慣習を踏襲した書式を用いた可能性も推測される。ただ、現段階で確定的な判断は難しく、今後慎重に検討していくべき謎である。
 本資料は、確実に御庄氏発給と分かる原文書として唯一のもの。予土国境地域の歴史を伝える数少ない地域資料である。

(専門学芸員 山内 治朋)

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