伊予国で拡大 疫病記す
歴史書「続日本紀」
- 「続日本紀」(江戸時代刊・県歴史文化博物館蔵)
「続日本紀(しょくにほんぎ)」は「日本書紀」に次いで勅撰=天皇の命(めい)=で編さんされた歴史書で、697(文武天皇元)~791(延暦10)年の政治、経済、社会、文化に関する様々な出来事が記されており、伊予国(愛媛県)における感染症流行の記録も含まれている。
706(慶雲3)年4月には「伊予国等飢疫」、翌707(同4)年12月には「伊予国疫、給薬療之」とあり、感染症が流行し、朝廷から薬が給付されたことがわかる。同年後半の疫病の記録は伊予国以外には確認できず、翌年2月に讃岐(香川県)、3月に山背(京都府)、備前(岡山県)で疫病により薬が給付された記事が出てくる。このシーズンの疫病は、伊予国が最初の感染拡大地域となり、徐々に西日本各地に広がったと推測することができる。これらが愛媛最古の感染症関連の史料である。
706年末には「天下諸国疫疾、百姓多死。始作土牛大儺」とあり、伊予国をはじめ疫病で多くが亡くなったので、土製の牛を使った祓(はらえ)の儀礼「大儺(たいな)」を実施している。これは後に「追儺(ついな)」と呼ばれ、鬼を追い払う節分行事の起源となった。現在の節分での鬼やらいの起源も、古代の疫病と関連していた。
奈良時代は日本と大陸の間で人やモノの交流が頻繁に行われた時期でもあった。その副作用として新型の感染症が持ち込まれ、国内で流行し、多くの死者を出すことになり、当時の社会に打撃を与えた。特に735~737(天平7~9)年の天然痘の大流行は、まず九州北部の大宰府から西日本各地に感染が広がり、最後に奈良の平城京にまでまん延した。この疫病により庶民だけではなく、政権中枢の藤原四兄弟(房前、武智麻呂、麻呂、宇合)を含めた数多くの貴族も感染して亡くなり、朝廷は一時、まひ状態に陥った。このような世情を憂い、聖武天皇は仏教への信仰を深め、東大寺の廬舎那仏(るしゃなぶつ、奈良の大仏)の建立にもつながっていった。
このように歴史の転換点の背景として、感染症の流行が関わっていた事例は数多く見ることができる。
博物館では本資料も含め感染症の歴史や民俗を紹介するテーマ展「疫病退散」を2021年1月24日まで開催中。
706(慶雲3)年4月には「伊予国等飢疫」、翌707(同4)年12月には「伊予国疫、給薬療之」とあり、感染症が流行し、朝廷から薬が給付されたことがわかる。同年後半の疫病の記録は伊予国以外には確認できず、翌年2月に讃岐(香川県)、3月に山背(京都府)、備前(岡山県)で疫病により薬が給付された記事が出てくる。このシーズンの疫病は、伊予国が最初の感染拡大地域となり、徐々に西日本各地に広がったと推測することができる。これらが愛媛最古の感染症関連の史料である。
706年末には「天下諸国疫疾、百姓多死。始作土牛大儺」とあり、伊予国をはじめ疫病で多くが亡くなったので、土製の牛を使った祓(はらえ)の儀礼「大儺(たいな)」を実施している。これは後に「追儺(ついな)」と呼ばれ、鬼を追い払う節分行事の起源となった。現在の節分での鬼やらいの起源も、古代の疫病と関連していた。
奈良時代は日本と大陸の間で人やモノの交流が頻繁に行われた時期でもあった。その副作用として新型の感染症が持ち込まれ、国内で流行し、多くの死者を出すことになり、当時の社会に打撃を与えた。特に735~737(天平7~9)年の天然痘の大流行は、まず九州北部の大宰府から西日本各地に感染が広がり、最後に奈良の平城京にまでまん延した。この疫病により庶民だけではなく、政権中枢の藤原四兄弟(房前、武智麻呂、麻呂、宇合)を含めた数多くの貴族も感染して亡くなり、朝廷は一時、まひ状態に陥った。このような世情を憂い、聖武天皇は仏教への信仰を深め、東大寺の廬舎那仏(るしゃなぶつ、奈良の大仏)の建立にもつながっていった。
このように歴史の転換点の背景として、感染症の流行が関わっていた事例は数多く見ることができる。
博物館では本資料も含め感染症の歴史や民俗を紹介するテーマ展「疫病退散」を2021年1月24日まで開催中。
(専門学芸員 大本 敬久)
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