治世実質1年 貴重文書
河野晴通宛行状
- 河野晴通宛行状。1542(天文11)年、個人蔵、県歴史文化博物館保管
戦国時代の伊予国守護河野氏の当主は6代にわたるが、不思議なことにそのうち5人が「通直」と「通宣」を交互に名乗っている。唯一の例外が、晴通である。本文書は、晴通が武任又五郎通親へ、祖父筑後入道一跡所従等を与えるとともに、河野郷(松山市)内武任分の土地を先祖以来の前例を踏まえて安堵(あんど)した文書である。
晴通は、ちょうどこの頃に家督を継承した模様だが、同時に父通直(弾正少弼)との間で父子対立(天文伊予の乱)が勃発している。晴通派の譜代家臣層と通直派の従属国衆との対立、さらに周防(山口県)大内氏への外交姿勢の違いも絡んで展開された守護家の主導権争いで、河野政権のその後をも左右した。しかし、晴通が翌1543(天文12)年に没したため、父通直が家督に復帰した。
そのため、晴通の発給文書は1542~43年の実質約1年間に6通が確認できるにとどまり、治世は極めて短かった。うち5通は、42年の「所領宛行状」や「寺領安堵状」で、家督交替に伴う当主権表明の一環だろう。本文書はこの数少ない1通である。
この約10年後の1553(天文22)年頃、今度は弟通宣(左京大夫)が父通直と確執を深める。この時は通宣が家督を手中におさめ、くしくも兄の雪辱を果たす形になった。花押(かおう)と呼ばれるサインを見ると、通宣は家督を掌握した頃から、本文書にも見える晴通の花押とほとんど同形を使い始める。もしかすると、かつて父通直と争い十分な家督掌握を果たせず倒れた亡兄晴通への敬慕や、遺志を継ぐ後継を意識したのであろうか。
受給者の武任氏は、河野郷内に所領を持つ河野氏家臣だったが、通親の孫貞通(宗意)の頃に武井氏に改姓し、戸田勝隆、福島正則、加藤嘉明たち歴々の大名に仕え、嘉明の膝元松前に住んだこともある。その後、代々松山藩士として松平家に幕末まで仕え、江戸中期には御用絵師武井周発をうむ。乱世から藩政期を伊予の武士として生き抜いた武井氏にとって、本文書は最古級の由緒の証である。
短命な河野氏当主や伊予の在地系武士を知る貴重な手掛かりである。
晴通は、ちょうどこの頃に家督を継承した模様だが、同時に父通直(弾正少弼)との間で父子対立(天文伊予の乱)が勃発している。晴通派の譜代家臣層と通直派の従属国衆との対立、さらに周防(山口県)大内氏への外交姿勢の違いも絡んで展開された守護家の主導権争いで、河野政権のその後をも左右した。しかし、晴通が翌1543(天文12)年に没したため、父通直が家督に復帰した。
そのため、晴通の発給文書は1542~43年の実質約1年間に6通が確認できるにとどまり、治世は極めて短かった。うち5通は、42年の「所領宛行状」や「寺領安堵状」で、家督交替に伴う当主権表明の一環だろう。本文書はこの数少ない1通である。
この約10年後の1553(天文22)年頃、今度は弟通宣(左京大夫)が父通直と確執を深める。この時は通宣が家督を手中におさめ、くしくも兄の雪辱を果たす形になった。花押(かおう)と呼ばれるサインを見ると、通宣は家督を掌握した頃から、本文書にも見える晴通の花押とほとんど同形を使い始める。もしかすると、かつて父通直と争い十分な家督掌握を果たせず倒れた亡兄晴通への敬慕や、遺志を継ぐ後継を意識したのであろうか。
受給者の武任氏は、河野郷内に所領を持つ河野氏家臣だったが、通親の孫貞通(宗意)の頃に武井氏に改姓し、戸田勝隆、福島正則、加藤嘉明たち歴々の大名に仕え、嘉明の膝元松前に住んだこともある。その後、代々松山藩士として松平家に幕末まで仕え、江戸中期には御用絵師武井周発をうむ。乱世から藩政期を伊予の武士として生き抜いた武井氏にとって、本文書は最古級の由緒の証である。
短命な河野氏当主や伊予の在地系武士を知る貴重な手掛かりである。
(学芸課長 山内 治朋)
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