資料補修で新たな発見
石崎汽船大阪航路ポスター
- 石崎汽船の大阪航路ポスター。上半分が赤で、下半分が青の斬新なデザイン(1934年作成、県歴史文化博物館蔵)
博物館にとって資料の補修も役割の一つである。資料の価値、今後の活用、補修の費用などを考慮し、資料を選定する。今回紹介する資料も傷みが激しく、そのまま展示できる状態ではなかった。そこで、専門業者に「裏打ち」を依頼した。資料の裏に和紙を張り、傷みが進むのを防ぐのである。戦前の洋紙は和紙よりも劣化しやすく、補修の対象となりやすい。
本資料は、石崎汽船が第11相生丸で三津浜―大阪に往復便を出すポスターである。10月20日17時三津浜発、翌朝大阪着。22日18時大阪発、翌朝三津浜着。2日間、仕事や観光で大阪に滞在できることが売りだ。煙突に屋号の「マルイチ」をつけた第11相生丸と思われる船が描かれている。ビジュアルな部分が無傷だったのは幸いである。
これまで本資料の作成年は不明だったが、補修にあたり再調査することにした。社史「海に生きる」によると、第11相生丸は1922(大正11)年に完成、尾道航路に就航した。速力13ノット(約24km/h)、定員約300人、浴室、食堂を備えた豪華船であった。尾道で国鉄に連絡する同航路は増便化・高速化が図られ、松山―大阪・東京の最短コースとして人気を呼んだ。しかし、昭和に入ると松山駅の開業や昭和恐慌などで利用客は減少した。
そこで、石崎汽船は貸船や観光船に力を入れ、1934(昭和9)年8月には大阪航路(三津浜―今治―大阪)を開設した。その背景には、大阪商船の別府航路が今治に寄港していたが、天候により月に数回寄港できず、不便をきたしていた事情があった。大阪航路は不定期便だったが、相場の半額で運航し、今治からの乗客が多かった。
「海南新聞」に掲載されている時刻表から、大阪航路開設以降の10月20日に第11相生丸が配船されている年を探した。その結果、開設直後の1934(昭和9)年であることが分かった。このポスターは、瀬戸内海の東西航路に活路を見いだして、まさに船出しようとする海運業者の意気込みがこもった資料と言える。
資料の補修は、単に良好な状態を維持して保存するだけではない。実は新たな調査と発見の機会でもあるのだ。
本資料は、石崎汽船が第11相生丸で三津浜―大阪に往復便を出すポスターである。10月20日17時三津浜発、翌朝大阪着。22日18時大阪発、翌朝三津浜着。2日間、仕事や観光で大阪に滞在できることが売りだ。煙突に屋号の「マルイチ」をつけた第11相生丸と思われる船が描かれている。ビジュアルな部分が無傷だったのは幸いである。
これまで本資料の作成年は不明だったが、補修にあたり再調査することにした。社史「海に生きる」によると、第11相生丸は1922(大正11)年に完成、尾道航路に就航した。速力13ノット(約24km/h)、定員約300人、浴室、食堂を備えた豪華船であった。尾道で国鉄に連絡する同航路は増便化・高速化が図られ、松山―大阪・東京の最短コースとして人気を呼んだ。しかし、昭和に入ると松山駅の開業や昭和恐慌などで利用客は減少した。
そこで、石崎汽船は貸船や観光船に力を入れ、1934(昭和9)年8月には大阪航路(三津浜―今治―大阪)を開設した。その背景には、大阪商船の別府航路が今治に寄港していたが、天候により月に数回寄港できず、不便をきたしていた事情があった。大阪航路は不定期便だったが、相場の半額で運航し、今治からの乗客が多かった。
「海南新聞」に掲載されている時刻表から、大阪航路開設以降の10月20日に第11相生丸が配船されている年を探した。その結果、開設直後の1934(昭和9)年であることが分かった。このポスターは、瀬戸内海の東西航路に活路を見いだして、まさに船出しようとする海運業者の意気込みがこもった資料と言える。
資料の補修は、単に良好な状態を維持して保存するだけではない。実は新たな調査と発見の機会でもあるのだ。
(専門学芸員 平井 誠)
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