調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第92回
2021.4.29

経塚造営の際に使用か

安養寺遺跡の陶器・土器

左から、瀬戸焼瓶子(高さ28.5cm、最大幅16.8cm、口径5.4cm、底径8.6cm)、常滑焼壺(高さ39.1cm、最大幅37cm、口径20cm、底径12cm)、筒形土器(高さ28cm、口径8.2cm、底径10.4cm)。
 今回の資料は、1996(平成8)年に館に寄託された瀬戸焼瓶子(へいじ)、筒形土器、常滑焼壺(つぼ)で、55(昭和30)年ごろに旧周桑郡丹原町(現西条市)の方が同町明穂の丘陵斜面を開墾していた際に発見、採集した。採集地は、付近に安養寺(高野山真言宗)があることから安養寺遺跡と呼ばれ、中山川南岸の標高約100mの丘陵に立地し、現在は松山自動車道の敷地となっている。
 発見者によると、多数の緑泥片岩が縦約1m、横約7m、高さ約0.5mにわたり積み上げられ、その上に五輪塔が散乱していたそう。石積の下には、常滑焼の甕(かめ)や壺が並べられ、その一つに土師(はじ)質の筒形土器が入っており、その横に瀬戸焼瓶子があったという。
 それぞれを見ていくと、瀬戸焼瓶子は現在の愛知県瀬戸市近辺で作られ、黄緑色の灰釉(かいゆう)がかかっている。土師質の筒形土器は、底に3カ所、焼成前にあけた穴があり、粘土紐(ひも)の輪積みにより成形されている。常滑焼壺は同県の知多半島で作られ、一部に暗緑色の自然釉がかかっている。これらは、いずれも13世紀ごろのものと考えられ、出土状況から経塚に使用されたと思われる。
 経塚とは、釈迦(しゃか)入滅後、世の中が乱れると考えられた末法の世にその教えを伝えるため、書写した経典を土の中に埋めた場所。平安から鎌倉期には、経典を納めた銅製の経筒が多く用いられた。県内でもこの時期の経塚は十数カ所発見されているが、経筒に土師質土器、容器に常滑焼が使われているのは安養寺遺跡だけである。また13世紀ごろの瀬戸焼瓶子は、明穂東岡遺跡(西条市小松町明穂)と横山城跡(同市中野)から、いずれも1点出土しているのみである。
 安養寺には後世の記録に、「故代諸旧記之集録」という史料が残る。この中に、文禄年間(1592~96)の僧道範が描き、明治期の僧宥海が写したと伝えられる「大乗山安養寺之図」が所収されている。現在では見られない寺の関連施設が多く描かれ、中でも資料の採集地付近には、寺の末寺とされる長教寺、奥院大師堂、墓地が記されている。これらから本資料は安養寺ゆかりの人々が、経塚を造営する際に使用した可能性が指摘できる貴重な逸品といえる。

(専門学芸員 亀井 英希)

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