藩主との主従関係示す
知行宛行状2通
- 蒲生忠知が家臣に知行を与えた黒印状。上は1627(寛永4)年、下は1634(寛永11)年(県歴史文化博物館蔵)
一見似たような2通の文書。どちらも松山藩主蒲生忠知が、家臣南家へ松山領内で200石を与えた知行宛行状である。以前、忠知自筆書状を紹介したが、今回は家臣への知行給付という公的な文書である。
花押と呼ばれる自筆サインの代わりに黒い印判が押されている。戦国時代に花押の代わりに印判を用いることが広がり、江戸時代の大名にも受け継がれた。朱印状がよく知られるが、黒印は朱印より薄礼で、家臣への知行宛行状などにもよく用いられた。
忠知は、戦国武将蒲生氏郷の孫で、1627(寛永4)年に会津藩60万石藩主の兄忠郷が継嗣のないまま没したため、跡を継いで松山領20万石・近江日野4万石の計24万石を拝領して松山藩主となった。
1通目は、入部時に南七郎左衛門へ宛てたもの。同人は会津時代には250石だったが、蒲生家の大幅な減移封に伴い50石減の200石となった。蒲生時代の松山城下絵図「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」(県歴史文化博物館蔵)、改易時の「松山城下図(寛永図)」(個人蔵・県歴博保管)によれば、現在の花園町通りと三番町通りが交わる辺りに屋敷があった。
一方、2通目は1634(同11)年の忠知死去の3か月前に、南庄之介へ発給したもの。同年の蒲生家家臣の分限帳に、同人は大小姓で200石、22歳とある。おそらく、当時南家で家督相続が行われ、それに伴う知行の給付だったのだろう。
大名は家臣に対し、領地替えや代替わりなど、節目ごとに知行宛行状を発給した。この2通は、蒲生家との主従関係の根幹をなす文書であり、南家にとっては家の存続や由緒に関わる重要な保証文書だったはずだ。
当館では2通を別ルートで収集したが、いったんは南家から散逸したものが、当館で再びめぐり合ったことになる。
花押と呼ばれる自筆サインの代わりに黒い印判が押されている。戦国時代に花押の代わりに印判を用いることが広がり、江戸時代の大名にも受け継がれた。朱印状がよく知られるが、黒印は朱印より薄礼で、家臣への知行宛行状などにもよく用いられた。
忠知は、戦国武将蒲生氏郷の孫で、1627(寛永4)年に会津藩60万石藩主の兄忠郷が継嗣のないまま没したため、跡を継いで松山領20万石・近江日野4万石の計24万石を拝領して松山藩主となった。
1通目は、入部時に南七郎左衛門へ宛てたもの。同人は会津時代には250石だったが、蒲生家の大幅な減移封に伴い50石減の200石となった。蒲生時代の松山城下絵図「蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図」(県歴史文化博物館蔵)、改易時の「松山城下図(寛永図)」(個人蔵・県歴博保管)によれば、現在の花園町通りと三番町通りが交わる辺りに屋敷があった。
一方、2通目は1634(同11)年の忠知死去の3か月前に、南庄之介へ発給したもの。同年の蒲生家家臣の分限帳に、同人は大小姓で200石、22歳とある。おそらく、当時南家で家督相続が行われ、それに伴う知行の給付だったのだろう。
大名は家臣に対し、領地替えや代替わりなど、節目ごとに知行宛行状を発給した。この2通は、蒲生家との主従関係の根幹をなす文書であり、南家にとっては家の存続や由緒に関わる重要な保証文書だったはずだ。
当館では2通を別ルートで収集したが、いったんは南家から散逸したものが、当館で再びめぐり合ったことになる。
(専門学芸員 山内 治朋)
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