調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第99回
2021.8.8

無人島にかつての営み

三足付土釜

三足付土釜(口径22.0cm、全高20.3cm、器高11.9cm、脚長8.4cm)。県教育委員会蔵、館保管
 由利島は、松山市の三津浜港の西方約18kmに位置する。一番近い有人島の二神島からでも南に9kmも離れている。大小二つの島が砂州でつながった形をしており、東側の大きな島を大由利、西側の小さい島を小由利という。
 島内からは、大由利の由利島大谷遺跡と由利島長者屋敷遺跡、小由利の由利島遺跡の3カ所の遺跡が発見されている。三足付土釜は『中島町誌』(1968年刊)編さんにむけて64年ごろから行われた調査の際、大由利山腹に位置する由利島大谷遺跡で採集されたものである。発見時は胴部から口縁部にかけての約3分の1個体と1本の脚だけだったが、後で足りない部分を樹脂などで接合補填(ほてん)し復元している。
 一般的に、中世における煮炊きの道具としては、大別すると甕(かめ)、鍋、釜の3種が使われていた。うち口縁部や口縁直下、または胴部の外面に鍔(つば)状の貼り付けを持ったものが釜である。そのうち土製のものが土釜で、三足付のものはカマドの床に置いて直接火をかけ、調理に使用されたと考えられている。
 今回紹介のものも、土師(はじ)質土器の外面に黒いすすが付着しており火にかけて使用されたことがうかがえる。胴部の外形は、底部からわずかに内側に湾曲しつつ外側に傾き、中ほどから口縁部にかけて内側に湾曲し内側に傾いている。口縁部外面には形骸化した鍔が付いている。時期は15世紀末~16世紀前半ごろと推察される。
 先学の研究によると、県内において三足付土釜は、13世紀後半には確実に出現し、年代が下がるにつれて鍔は形骸化し低く幅広に変化する。器高は浅く脚は下方に付くようになり、16世紀まで確認できる、とのことである。
 今でこそ、テレビ番組の無人島を開拓する企画などでしか人が立ち寄ることのない由利島であるが、かつては「由利千軒」と呼ばれるくらい多くの人家があり栄えたと伝えられる。中島町誌にも、41年には16戸の常住者がおり、夏のイワシ漁期には二神島から70~80戸の移住者が加わって漁を行っていた、と紹介されている。現在は人がいない場所でも、かつての人々の営みを伝える資料が埋もれている可能性は未知数である。

(専門学芸員 亀井 英希)

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