調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第102回
2021.9.27

伊予国の説話が随所に

平安時代の歴史物語「大鏡」

「大鏡」巻3(江戸時代刊、県歴史文化博物館蔵)
 「大鏡」は平安時代、文徳天皇から後三条天皇まで(850~1025年)の出来事を紀伝体でつづった歴史物語で、11世紀後半~12世紀初頭に成立した。
 中には伊予国に関する記述も見られる。例えば、関東の平将門の乱、瀬戸内海の藤原純友の乱に関して、将門は天皇を討ち取って、純友は関白になろうと2人で共謀し、乱を起こしたと記されている。史実か否かは不明であるが、「大鏡」成立時には共謀説が流布していたことがわかる。
 また、大山祇神社(今治市)に関する説話も見える。神社には「日本総鎮守 大山積大明神」と書かれた木造の扁額(へんがく)が保管され、藤原佐理の筆と伝えられる。佐理は944(天慶7)年に生まれ、998(長徳4)年に没した。平安時代中期の貴族・名書家で、小野道風、藤原行成とともに「三蹟(さんせき)」として知られる。
 「大鏡」巻3「実頼」の中に逸話として次のように書かれている。
 藤原実頼の孫で大宰大弐(だざいのだいに、大宰府の次官)を務めた佐理は、世に聞こえた書道の名人で、995(長徳元)年に九州での任期が終わり、京に戻ろうと瀬戸内海を航行していた。伊予国の手前の港で海がひどく荒れてしまう。少し天候が回復し船出しようとすると、やはり海が荒れる。すると佐理の夢に気高い様子の男(三島明神)が現れ、「実は私があなたを引き留めているのだ。ぜひ私の神社の額を書いてほしい」と懇願した。
 何日もの間荒れ続けたとも思われぬほど晴れ渡り、大三島の方に向かって追い風が吹き、飛ぶように船が走り着いた。そこで大山祇神社に参詣し、神前で額を書いた。その後の航行は平穏であり、無事、京に戻ることができた―。
 「大鏡」に見える佐理と大山祇神社の説話はその後、伊予国内に広まった。例えば今治市大西町紺原の神社祭礼では、船御輿(ふなみこし)と呼ばれる船形屋台が登場し、船上に佐理と三島の神を模した人形を乗せる。また、上島町弓削明神には佐理が漂着した伝説があり、「藤原佐理卿漂着之浜」と刻まれた石碑が建っている。地域の伝承・伝説として、この説話は今に伝わっている。

(専門学芸員 大本 敬久)

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