「講和」の動き 認識示す
朝鮮在陣中の福島正則書状
- 朝鮮半島在陣中の福島正則からの書状。1593(文禄2)年。個人蔵、館保管
豊臣秀吉による文禄・慶長の役では、全国の諸将に交じって伊予の大名も出陣した。文禄の役当時に国分山城(今治市)城主であった福島正則もその一人で、本文書は朝鮮半島在陣中の正則が伊予の在地領主武井宗意に宛てた書状。年頭の祝儀への謝意を伝えるとともに、明(みん)国より詫言(わびごと)を伝える人質2人が肥前名護屋(佐賀県唐津市)に到着したので、帰国は間近ではないかと命令を待つばかりといった近況を伝えている。
正則は、1587(天正15)年の九州平定後に東予で11万3200石を拝領して伊予の大名となった。1592(天正20)年に文禄の役が始まると、同じ伊予衆の戸田勝隆・来島兄弟をはじめ、生駒親正・蜂須賀家政・長宗我部元親たち四国衆とともに五番隊に編成され、正則は4800人の動員を命じられた。
また、大船を警固船に用いるため水主(かこ)や船奉行もそろえて藤堂高虎・九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治に渡すようにも命じられており、大船や操船者の供出が可能であったことも分かる。一時帰国や海戦参加の事実なども、海上での機動力をうかがわせる。もしかすると、かつて海賊衆が盤踞(ばんきょ)した芸予諸島を含む東予を領有したことが、正則の水軍力の一つの背景にあったのかもしれない。
正則が出陣した文禄の役では、1593(文禄2)年5月15日に偽りの明勅使の謝用梓(しゃようし)・徐一貫(じょいっかん)が名護屋に到着し、その後豊臣秀吉と会見するが、本書状はこの時のものに相当する。
ここには、2人を「使節」ではなく「人質」と記し、申し開きをする人質が到着したので帰国も近いと予想する在陣中の正則の認識が表れている。在陣中の伊予の大名と国元とのやりとりの中に講和交渉の様子が記されるとともに、動員された武将のリアルタイムの認識もうかがうことができる数少ない地域資料といえる。
正則は、1587(天正15)年の九州平定後に東予で11万3200石を拝領して伊予の大名となった。1592(天正20)年に文禄の役が始まると、同じ伊予衆の戸田勝隆・来島兄弟をはじめ、生駒親正・蜂須賀家政・長宗我部元親たち四国衆とともに五番隊に編成され、正則は4800人の動員を命じられた。
また、大船を警固船に用いるため水主(かこ)や船奉行もそろえて藤堂高虎・九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治に渡すようにも命じられており、大船や操船者の供出が可能であったことも分かる。一時帰国や海戦参加の事実なども、海上での機動力をうかがわせる。もしかすると、かつて海賊衆が盤踞(ばんきょ)した芸予諸島を含む東予を領有したことが、正則の水軍力の一つの背景にあったのかもしれない。
正則が出陣した文禄の役では、1593(文禄2)年5月15日に偽りの明勅使の謝用梓(しゃようし)・徐一貫(じょいっかん)が名護屋に到着し、その後豊臣秀吉と会見するが、本書状はこの時のものに相当する。
ここには、2人を「使節」ではなく「人質」と記し、申し開きをする人質が到着したので帰国も近いと予想する在陣中の正則の認識が表れている。在陣中の伊予の大名と国元とのやりとりの中に講和交渉の様子が記されるとともに、動員された武将のリアルタイムの認識もうかがうことができる数少ない地域資料といえる。
(専門学芸員 山内 治朋)
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