江戸城普請に石船派遣
加藤嘉明の書状
- 加藤嘉明書状(1606=慶長11=年、県歴史文化博物館蔵)
加藤嘉明は、「賤ケ岳の七本槍」の一人として知られる豊臣秀吉子飼いの武将で、淡路島に所領を得た後は、水軍の将として各地を転戦し、1595(文禄4)年には伊予松前6万石を拝領した。しかし、秀吉没後の関ケ原合戦では徳川方に味方し、恩賞として伊予半国20万石の大名となり、徳川政権の下で生きることになった。
1603(慶長8)年に幕府を開いた徳川政権は諸大名に天下普請を命じ、本拠江戸城の普請はその代表といえよう。1606年には、西国の大名に命じ、3千艘(そう)もの石船を用いて伊豆(静岡県)から江戸へ石垣の石材輸送が開始される。
本書状は、この時の石船派遣に関する1通で、嘉明が片桐且元に宛てたもの。播磨(兵庫県)姫路城主池田輝政と紀伊(和歌山県)和歌山城主浅野幸長が石船を50艘派遣したが、自分に50艘は多いので、まずは30艘を派遣したいと伝えている。30艘としたのは、池田52万石余、浅野37万石余に比べ、嘉明20万石という、当時の国力の差に由来するのだろうか。
その後、嘉明は船を追加派遣したようだが、この3カ月後には石材輸送中だった諸大名の船数百艘が大風で破損し、嘉明の船も46艘が被害を受けたという。本書状に見える30艘の中にも、この海難に遭った船があったかもしれない。嘉明ら諸大名にとって、負担は大きかったことだろう。
宛先の片桐且元も「賤ケ岳の七本槍」の武将の一人で、当時は豊臣家家老として徳川家との仲介に尽力していた。豊臣・徳川が並び立つ時代に、徳川の江戸城普請に動員された、加藤・池田・浅野・片桐たち西国の豊臣恩顧大名たちが、互いに情報交換していた様子がうかがえる。
また、世の中が太平に向かう中で、水軍の活動から次第に軍事色は薄れ、こうした海上輸送の役割が主体になっていく。嘉明の率いた水軍が迎えつつあった転換期の一端を伝えているのかもしれない。
ちなみに、差出名は「吉明」。嘉明は実名を生涯で4種類使用し、「吉明」はこの頃の数年間だけ使った三つ目で、確認事例もわずかであり、その意味でも貴重な1通である。
1603(慶長8)年に幕府を開いた徳川政権は諸大名に天下普請を命じ、本拠江戸城の普請はその代表といえよう。1606年には、西国の大名に命じ、3千艘(そう)もの石船を用いて伊豆(静岡県)から江戸へ石垣の石材輸送が開始される。
本書状は、この時の石船派遣に関する1通で、嘉明が片桐且元に宛てたもの。播磨(兵庫県)姫路城主池田輝政と紀伊(和歌山県)和歌山城主浅野幸長が石船を50艘派遣したが、自分に50艘は多いので、まずは30艘を派遣したいと伝えている。30艘としたのは、池田52万石余、浅野37万石余に比べ、嘉明20万石という、当時の国力の差に由来するのだろうか。
その後、嘉明は船を追加派遣したようだが、この3カ月後には石材輸送中だった諸大名の船数百艘が大風で破損し、嘉明の船も46艘が被害を受けたという。本書状に見える30艘の中にも、この海難に遭った船があったかもしれない。嘉明ら諸大名にとって、負担は大きかったことだろう。
宛先の片桐且元も「賤ケ岳の七本槍」の武将の一人で、当時は豊臣家家老として徳川家との仲介に尽力していた。豊臣・徳川が並び立つ時代に、徳川の江戸城普請に動員された、加藤・池田・浅野・片桐たち西国の豊臣恩顧大名たちが、互いに情報交換していた様子がうかがえる。
また、世の中が太平に向かう中で、水軍の活動から次第に軍事色は薄れ、こうした海上輸送の役割が主体になっていく。嘉明の率いた水軍が迎えつつあった転換期の一端を伝えているのかもしれない。
ちなみに、差出名は「吉明」。嘉明は実名を生涯で4種類使用し、「吉明」はこの頃の数年間だけ使った三つ目で、確認事例もわずかであり、その意味でも貴重な1通である。
(専門学芸員 山内 治朋)
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