国史跡指定の後押しに
伊予国分寺塔跡出土の瓦
- 「複弁六葉蓮華文軒丸瓦(ふくべんろくようれんげもんのきまるがわら)」径16.3cm。
四国霊場59番札所国分寺(今治市国分)の東方約100mの地点に、今も寺の創建時にあったとされる塔の礎石が残っている。その場所は、今から100年前の1921(大正10)年3月3日、県内初の国の史跡「伊予国分寺塔跡」に指定されている。7世紀後半以後の律令(りつりょう)期において仏教は、中央集権化の精神的支柱として国家の保護を受け、741 (天平13)年には、聖武天皇の発願(ほつがん)により、各国府の所在地に国分寺と国分尼寺が建立されることとなった。
伊予国分寺塔跡の国史跡指定の経緯についての詳細は、次のように「愛媛県史」に述べられている。要約すると、1919 (大正8)年、文化財保護法の前身の一つである「史蹟名勝天然紀念物保存法」が内務大臣によって4月10日に公布され、法を適用する物件が指定されることとなった。
愛媛県では、翌年5月28日に内務部学事課を担当課として「史蹟勝地調査会」を設置し、調査委員を任命して県内の史跡・名勝・天然記念物について調査・審査することとなり、その結果、国で保護保存を要する史跡の一つとして「伊予国分寺塔跡」が選ばれたのであった。指定の理由については、創建時の塔の柱跡と考えられる礎石が残っており、当時の瓦の破片が付近に散在している点からということである。
その後、1968(昭和43)年に発掘調査が行われ、塔跡の東南26mの地点から、回廊跡とみられている溝状遺構や柱穴のほか、須恵器や土師(はじ)器、奈良時代中期から平安時代中期にかけての瓦が多数見つかった。このうち、当館が保管しているのは、平面的な6枚の花弁の文様が施されている軒丸瓦である。松山市の来住廃寺(きしはいじ)でも類似のものが出土しており、このタイプは平安時代中期以降に、飛鳥・奈良時代の文様をまねて作られたと考えられている。国分寺の瓦は国分寺や今治城等にも保管されている。
現地を訪れ、往時の姿を想像しつつ、史跡指定の意義について思いを巡らせてみてはいかがだろうか。
伊予国分寺塔跡の国史跡指定の経緯についての詳細は、次のように「愛媛県史」に述べられている。要約すると、1919 (大正8)年、文化財保護法の前身の一つである「史蹟名勝天然紀念物保存法」が内務大臣によって4月10日に公布され、法を適用する物件が指定されることとなった。
愛媛県では、翌年5月28日に内務部学事課を担当課として「史蹟勝地調査会」を設置し、調査委員を任命して県内の史跡・名勝・天然記念物について調査・審査することとなり、その結果、国で保護保存を要する史跡の一つとして「伊予国分寺塔跡」が選ばれたのであった。指定の理由については、創建時の塔の柱跡と考えられる礎石が残っており、当時の瓦の破片が付近に散在している点からということである。
その後、1968(昭和43)年に発掘調査が行われ、塔跡の東南26mの地点から、回廊跡とみられている溝状遺構や柱穴のほか、須恵器や土師(はじ)器、奈良時代中期から平安時代中期にかけての瓦が多数見つかった。このうち、当館が保管しているのは、平面的な6枚の花弁の文様が施されている軒丸瓦である。松山市の来住廃寺(きしはいじ)でも類似のものが出土しており、このタイプは平安時代中期以降に、飛鳥・奈良時代の文様をまねて作られたと考えられている。国分寺の瓦は国分寺や今治城等にも保管されている。
現地を訪れ、往時の姿を想像しつつ、史跡指定の意義について思いを巡らせてみてはいかがだろうか。
(専門学芸員 亀井 英希)
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