絶対的扱い 子規が反発
紀貫之ら撰集「古今和歌集」
- 江戸時代刊の古今和歌集(県歴史文化博物館蔵)
「古今和歌集」は900年代前半に醍醐天皇の勅命によって編さんされた和歌集である。すでに奈良時代に「万葉集」が成立しているが、こちらは天皇の勅命ではなく、古今和歌集が日本初の勅撰(ちょくせん)和歌集とされる。
紀貫之、凡河内躬恒らが撰集作業にあたり、歌数は約1100首に上る。春、夏、秋、冬、賀、恋、哀傷などが部立(分類)され、全20巻で構成されている。冒頭には仮名で記された序文(「仮名序」)が載せられ、和歌の起源や歴史、小野小町や在原業平ら六歌仙への評価が記される。
古今和歌集の登場によって、800年代から盛んであった漢詩に加え、和歌が貴族社会の中で大きな地位を確立し、その表現や美意識は、後世の文学のみならず、絵画、衣装、工芸などにも影響を与え、日本文化の礎ともなった。
ところが、古今和歌集の評価は明治時代以降、必ずしも芳しいとはいえない状況が続いている。それは松山出身の正岡子規が、1898(明治31)年に新聞「日本」に連載した歌論「歌よみに与ふる書」において、古今和歌集やその撰者の一人、紀貫之を酷評したことに始まる。
子規は万葉集を高く評価するものの、紀貫之については「下手な歌よみ」で、古今和歌集は「くだらぬ集」として、「貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬこと」と過激な評価を下している。
実は子規が酷評したのは、当時、古今和歌集を絶対的なものとして扱い、和歌創作が閉鎖的で一部の者による世界となっていたことに反発するためでもあった。具体的な批判相手は、当時、宮内省内で和歌の役職を担っていた御歌所(おうたどころ)派で、近代短歌革新のために古今和歌集批判を通じて、御歌所派を攻撃したのである。
子規は作品としての古今和歌集を絶対否定したのではなかったが、「子規が酷評した」という理由で、後世の者が古今和歌集を無自覚に否定し、万葉集重視の風潮が現代まで続いている。
古今和歌集の評価は、まずは自らが原典を見たり、読んだりして判断する必要があるといえる。11日からの特別展「古代文学と伊予国」(2022年2月11日~4月7日)にて展示をするので、ご観覧いただきたい。
紀貫之、凡河内躬恒らが撰集作業にあたり、歌数は約1100首に上る。春、夏、秋、冬、賀、恋、哀傷などが部立(分類)され、全20巻で構成されている。冒頭には仮名で記された序文(「仮名序」)が載せられ、和歌の起源や歴史、小野小町や在原業平ら六歌仙への評価が記される。
古今和歌集の登場によって、800年代から盛んであった漢詩に加え、和歌が貴族社会の中で大きな地位を確立し、その表現や美意識は、後世の文学のみならず、絵画、衣装、工芸などにも影響を与え、日本文化の礎ともなった。
ところが、古今和歌集の評価は明治時代以降、必ずしも芳しいとはいえない状況が続いている。それは松山出身の正岡子規が、1898(明治31)年に新聞「日本」に連載した歌論「歌よみに与ふる書」において、古今和歌集やその撰者の一人、紀貫之を酷評したことに始まる。
子規は万葉集を高く評価するものの、紀貫之については「下手な歌よみ」で、古今和歌集は「くだらぬ集」として、「貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬこと」と過激な評価を下している。
実は子規が酷評したのは、当時、古今和歌集を絶対的なものとして扱い、和歌創作が閉鎖的で一部の者による世界となっていたことに反発するためでもあった。具体的な批判相手は、当時、宮内省内で和歌の役職を担っていた御歌所(おうたどころ)派で、近代短歌革新のために古今和歌集批判を通じて、御歌所派を攻撃したのである。
子規は作品としての古今和歌集を絶対否定したのではなかったが、「子規が酷評した」という理由で、後世の者が古今和歌集を無自覚に否定し、万葉集重視の風潮が現代まで続いている。
古今和歌集の評価は、まずは自らが原典を見たり、読んだりして判断する必要があるといえる。11日からの特別展「古代文学と伊予国」(2022年2月11日~4月7日)にて展示をするので、ご観覧いただきたい。
(専門学芸員 大本 敬久)
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