銅矛発見の経緯を記す
久枝村の木札2枚
- 銅矛の発見を伝える2枚の木札。日吉神社蔵(県歴史文化博物館保管)。左全長152.0cm。右全長97.0cm
今回紹介するのは、墨書された2枚の木札である。いずれも西予市宇和町久枝で出土した広形銅矛の来歴を示す資料として、昨年(2021年)開催したテーマ展「東予と南予の弥生文化と青銅器」で展示し、地元関係者のご尽力で館に寄託された。ここで改めて取り上げたい。
左の木札は、1729(享保14)年に久枝村に山王社が再興された際、永長(ながおさ)村の常居寺住職の玄如がその経緯を記した棟札で、神主をはじめ、庄屋、組頭、横目、大工の名前と氏子中が願主として下部に書き加えられている。
棟札によると、かつて久枝村大窪台の山頂に山王大権現をまつっていたが、行くのが困難なことから中腹に移した。1671(寛文11)年になり、長七という人物が山王の古跡で、棨戟(けいげき=銅矛)6個を発見した。宇和島藩に報告したところ、4個は宇和島城の山王社に納められ、残りの2個が久枝山王社の宝物となった。
また同じ頃、三蔵という人物がそれとは別に棨戟15個を発見した。宇和島藩に報告したところ、1個を宇和島藩主に納め、残り14個が久枝山王社の宝物となった。そこで、願主の一人、庄屋古谷貞綱の父親直綱の頃に山王社の再建を志したが実現せず、貞綱の時代になり、ようやく再興を果たしたというものである。
右側の木札は、1850(嘉永3)年に千代廼屋正忠という人物が銅矛を描いたものだが、地元に残存する広形銅矛とほぼ同じ大きさであることから、拓本にした上で、描き写したものと思われる。
正忠は宇和島藩士井関盛英が編さんした「宇和旧記」の記事を参考に銅矛発見の経緯を記しているが、実際に「宇和旧記」を確認すると、最初に発見した年を寛文8年、その個数を5本とするなど、棟札の記事と若干の相違が見られる。それはさておき、正忠は銅矛が用いられた古代、その土中に埋もれていた長い年月に思いをはせているが、あるいは当時流行した復古的な国学の影響を受けているのかもしれない。だからこそ、180年前に発見された銅矛に対して畏敬の念を示し、後世に伝わるように、その姿を板に残したのではなかろうか。
左の木札は、1729(享保14)年に久枝村に山王社が再興された際、永長(ながおさ)村の常居寺住職の玄如がその経緯を記した棟札で、神主をはじめ、庄屋、組頭、横目、大工の名前と氏子中が願主として下部に書き加えられている。
棟札によると、かつて久枝村大窪台の山頂に山王大権現をまつっていたが、行くのが困難なことから中腹に移した。1671(寛文11)年になり、長七という人物が山王の古跡で、棨戟(けいげき=銅矛)6個を発見した。宇和島藩に報告したところ、4個は宇和島城の山王社に納められ、残りの2個が久枝山王社の宝物となった。
また同じ頃、三蔵という人物がそれとは別に棨戟15個を発見した。宇和島藩に報告したところ、1個を宇和島藩主に納め、残り14個が久枝山王社の宝物となった。そこで、願主の一人、庄屋古谷貞綱の父親直綱の頃に山王社の再建を志したが実現せず、貞綱の時代になり、ようやく再興を果たしたというものである。
右側の木札は、1850(嘉永3)年に千代廼屋正忠という人物が銅矛を描いたものだが、地元に残存する広形銅矛とほぼ同じ大きさであることから、拓本にした上で、描き写したものと思われる。
正忠は宇和島藩士井関盛英が編さんした「宇和旧記」の記事を参考に銅矛発見の経緯を記しているが、実際に「宇和旧記」を確認すると、最初に発見した年を寛文8年、その個数を5本とするなど、棟札の記事と若干の相違が見られる。それはさておき、正忠は銅矛が用いられた古代、その土中に埋もれていた長い年月に思いをはせているが、あるいは当時流行した復古的な国学の影響を受けているのかもしれない。だからこそ、180年前に発見された銅矛に対して畏敬の念を示し、後世に伝わるように、その姿を板に残したのではなかろうか。
(専門学芸員 冨田 尚夫)
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