地域信仰の姿を反映か
戦国期 滝山城関連の旗
- 流旗(久保家伝来)。戦国時代末期か。個人蔵・県歴史文化博物館保管
戦国時代末期の滝山城(大洲市長浜町)の城主久保行春所用と伝わる鎧(よろい)・兜(かぶと)を本連載で以前紹介したが、今回はこれに関連する旗を取り上げたい。大洲藩の地誌「大洲旧記」にも鎧・兜とともに「白地に上り藤の紋有」という旗の伝存が記されている。
麻の生地に墨書した簡素なもので、上端が折り返されて細い筒状になっている。細い軸棒を通してひもでつる流旗だったことが分かる。幅は約30センチ(約1尺)で、反物をそのまま必要な長さに裁断したのであろう。傷みの激しい下方をよく見ると、変色している。「大洲旧記」には、久保氏の嫡男が討死した際、家臣が首を包んで持ち帰ったために付いた血の跡が残ると記している。こうした小型で質素な旗は、実用的な消耗品だったと思われることから、貴重な現存例といえる。
上段中央に「三」、右に八幡大菩薩・日吉山王・熊野三所大権現、左に住吉大明神・祇園牛頭(ごず)天王・天満自在天神の神名を配する。「三」は、伊予一宮大山祇神社の祭神三島大明神を指すと考えられる。久保氏在所今坊(こんぼう)を含む肱川河口から右岸一帯にかけては、戒川(大洲市戒川)の三島神社が産土神(うぶすながみ)として中世以来広く信仰を集めていた。
江戸時代中期の大洲藩の神社改めによると、同社の摂社・末社には、旗の神々と重複・関連する十二社権現社・住吉神社・牛頭天神社・天神社があったという。旗に記された神々が、同社に結び付く形ですでに戦国時代から久保氏の身近にも鎮座した可能性を示唆しており、旗には地域信仰の姿が反映されているのかもしれない。
当館では、他にも南予に伝来した類似の旗2点を収蔵している。いずれも麻地に墨書、中央上部に「三」といった共通点がある。一方で、神名や文様には違いがある。こうした旗は、単に武具というだけではなく、当時の地域や集団のアイデンティティーを知る貴重な手がかりの一つともいえるだろう。
麻の生地に墨書した簡素なもので、上端が折り返されて細い筒状になっている。細い軸棒を通してひもでつる流旗だったことが分かる。幅は約30センチ(約1尺)で、反物をそのまま必要な長さに裁断したのであろう。傷みの激しい下方をよく見ると、変色している。「大洲旧記」には、久保氏の嫡男が討死した際、家臣が首を包んで持ち帰ったために付いた血の跡が残ると記している。こうした小型で質素な旗は、実用的な消耗品だったと思われることから、貴重な現存例といえる。
上段中央に「三」、右に八幡大菩薩・日吉山王・熊野三所大権現、左に住吉大明神・祇園牛頭(ごず)天王・天満自在天神の神名を配する。「三」は、伊予一宮大山祇神社の祭神三島大明神を指すと考えられる。久保氏在所今坊(こんぼう)を含む肱川河口から右岸一帯にかけては、戒川(大洲市戒川)の三島神社が産土神(うぶすながみ)として中世以来広く信仰を集めていた。
江戸時代中期の大洲藩の神社改めによると、同社の摂社・末社には、旗の神々と重複・関連する十二社権現社・住吉神社・牛頭天神社・天神社があったという。旗に記された神々が、同社に結び付く形ですでに戦国時代から久保氏の身近にも鎮座した可能性を示唆しており、旗には地域信仰の姿が反映されているのかもしれない。
当館では、他にも南予に伝来した類似の旗2点を収蔵している。いずれも麻地に墨書、中央上部に「三」といった共通点がある。一方で、神名や文様には違いがある。こうした旗は、単に武具というだけではなく、当時の地域や集団のアイデンティティーを知る貴重な手がかりの一つともいえるだろう。
(専門学芸員 山内 治朋)
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