架け替え 耐久性を重視
石手川橘口大橋絵図
- 石手川橘口大橋絵図。個人蔵・県歴史文化博物館保管。
立花橋は石手川に架かる橋で、現在の橋は1928(昭和3)年に建設された鉄製のトラス橋である。南から松山の中心部に向かう入り口に位置するため、多くの自動車、自転車、歩行者が行き交う。
江戸時代においても、高知と松山を結ぶ土佐街道の松山城下への入り口に当たり、交通の要衝であった。軍事的な理由から立花口にはしばらく橋はなかったが、浄瑠璃寺の住職も務めた堯音(ぎょうおん)の発願により1819(文政2)年に初めて架橋されている。土佐街道を通じた物資の輸送や人の往来の増大に対応したものであろう。堯音が架けた橋は、絵図によりその姿がわかるが、橋脚をもたない木造のアーチ橋になっている。その点について、松山藩に関する編年記録「松山叢談」は、「周防岩国算盤(そろばん)橋の写なり」と記す。つまり、堯音は大工の檜垣卯兵衛を周防岩国の錦帯橋に派遣、その構造を学ばせた上で造らせたのが初代の橋だったと考えられるのである。
初代の立花橋がいつまであったのか不明であるが、松山藩の普請方が管理していた史料にも、「石手川橘口大橋」と記された絵図が2枚ある。年代は不明なものの、架け替えられた2代目の橋の絵図と思われる。そのうち写真を掲載した1枚は橋の側面を蔀板(しとみいた)で覆った完成図に当たるもの、もう1枚は蔀板を外して内部の構造が見えるようにしている。これらの絵図によると、2代目の橋は初代とは異なり、刎橋(はねばし)と呼ばれるもので、主桁(しゅげた)の一端を石垣に埋め込み、両側から突き出したこの橋桁を台にして、この上にさらに水平な桁を架け渡す構造になっている。また、2代目には、橋脚となる2基の3本建ての橋杭(はしぐい)も設けられている。初代よりも耐久性を重視したつくりへと変化している。
そして、1875年(明治8)には2代目の橋が大破、その翌年にお雇い外国人であるオランダ人技術者チッセンの設計により、3代目が完成している。歴代の橋の絵図が遺(のこ)されていることで、松山城下の入り口にあった橋の変遷をたどることができる。その時々の技術の粋が詰まった橋の姿は、どれも個性的で美しい。
江戸時代においても、高知と松山を結ぶ土佐街道の松山城下への入り口に当たり、交通の要衝であった。軍事的な理由から立花口にはしばらく橋はなかったが、浄瑠璃寺の住職も務めた堯音(ぎょうおん)の発願により1819(文政2)年に初めて架橋されている。土佐街道を通じた物資の輸送や人の往来の増大に対応したものであろう。堯音が架けた橋は、絵図によりその姿がわかるが、橋脚をもたない木造のアーチ橋になっている。その点について、松山藩に関する編年記録「松山叢談」は、「周防岩国算盤(そろばん)橋の写なり」と記す。つまり、堯音は大工の檜垣卯兵衛を周防岩国の錦帯橋に派遣、その構造を学ばせた上で造らせたのが初代の橋だったと考えられるのである。
初代の立花橋がいつまであったのか不明であるが、松山藩の普請方が管理していた史料にも、「石手川橘口大橋」と記された絵図が2枚ある。年代は不明なものの、架け替えられた2代目の橋の絵図と思われる。そのうち写真を掲載した1枚は橋の側面を蔀板(しとみいた)で覆った完成図に当たるもの、もう1枚は蔀板を外して内部の構造が見えるようにしている。これらの絵図によると、2代目の橋は初代とは異なり、刎橋(はねばし)と呼ばれるもので、主桁(しゅげた)の一端を石垣に埋め込み、両側から突き出したこの橋桁を台にして、この上にさらに水平な桁を架け渡す構造になっている。また、2代目には、橋脚となる2基の3本建ての橋杭(はしぐい)も設けられている。初代よりも耐久性を重視したつくりへと変化している。
そして、1875年(明治8)には2代目の橋が大破、その翌年にお雇い外国人であるオランダ人技術者チッセンの設計により、3代目が完成している。歴代の橋の絵図が遺(のこ)されていることで、松山城下の入り口にあった橋の変遷をたどることができる。その時々の技術の粋が詰まった橋の姿は、どれも個性的で美しい。
(学芸課長 井上 淳)
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