調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第132回
2022.12.17

不変の信頼 今に伝える

加藤嘉明へ秀吉朱印状

加藤嘉明に宛てた豊臣秀吉の朱印状。1598(慶長3)年正月17日付、県歴史文化博物館所蔵
 慶長の役の激戦で知られる蔚山(ウルサン)籠城戦の後、豊臣秀吉が加藤嘉明へ宛てた朱印状。関係者に一斉に発給したうちの1通である。
 1597(慶長2)年12月22日から翌年1月4日にかけて、加藤清正・浅野幸長たちが守る蔚山城が、明・朝鮮軍に包囲され連日攻撃を受けた。城の完成目前でいまだ準備の整わない中での籠城戦だったため、戦況は厳しくなる一方で、年末には和睦交渉の呼びかけもあったが、年明け早々に援軍が到着したことから、明・朝鮮軍は撤退した。この援軍に嘉明も加わっていた。
 本状にも、各将が後巻として押し出したところ敵が退いたと記されている。続けて秀吉は、毛利輝元・増田(ました)長盛・因幡(いなば)衆・但馬(たじま)衆・紀伊衆・大和衆・九鬼(くき)父子等へも援軍命令を出していたが、敵撤退の報告を受けて取りやめたとも伝えている。その上で、諸城の普請を丈夫にし、兵糧・玉薬といった食料・武器も十分に蓄えておくように命じており、対策を怠らない秀吉の姿勢がうかがえる。本状からは、蔚山籠城戦をめぐる緊迫した状況が伝わってくる。
 追伸で秀吉は出陣先の寒さを心配し、衣類を贈って着用を促しており、嘉明ら現地諸将たちへの気遣いも垣間見える。
 しかし、秀吉の意向とは裏腹に、この後諸将は消極姿勢に転じて蔚山城・順天(スンチョン)城などの放棄案を連判で上申して、秀吉を激怒させている。そのような中、嘉明はこの連判に加わらなかったため、秀吉の称賛を得て加増にあずかり、10万石の大名へと成長することになった。
 この秀吉の称賛を伝えた1598(慶長3)年5月3日の加藤嘉明宛豊臣秀吉朱印状は、以前本連載で紹介した。これらは、蔚山城の戦いと嘉明への変わらぬ信頼を今に伝える秀吉朱印状である。

(専門学芸員 山内 治朋)

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