調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第135回
2023.2.18

縁のある伊達宗城が賛

高野長英画像

高野長英画像。明治時代、県歴史文化博物館蔵
 掛け軸に描かれた頬骨が張った意志の強そうな顔。どこかで見たような気がする人も多いかもしれない。教科書などにも図版が掲載されている高野長英の肖像画である。文人画家の椿椿山(つばきちんざん)が描いた原本は高野長英記念館(岩手県奥州市)が所蔵しており、国の重要文化財に指定されているが、本資料は大槻如電(じょでん)が明治時代に原本を借り出して、模写させたものである。
 如電は江戸時代後期の蘭学者大槻玄沢(げんたく)を祖父にもち、蘭学関係の資料の収集家としても知られる。女性画家の森鑛子が模写に当たっているが、長英の厳しい表情など、原本に忠実な模写がされていることがうかがえる。
 掛け軸を収めた木箱には、1892年(明治25)の如電による箱書きがある。そこには、長英と親交が深かった渡辺崋山が、その顔だけを戯れに描いた紙片を、何者かが椿山に渡して肖像画がつくられたという伝承が記されている。そして、崋山のところから紙片を持ち出した人物について、蘭学の研究会である尚歯会(しょうしかい)を主宰、崋山や長英とも交流があった遠藤鶴洲か、あるいは長英の門人であった内田五観と推測している。真偽は定かではないが、長英が亡くなってから40年余りしか経過しない時期における肖像画制作に関わる情報として興味深い。
 本資料で1点だけ原本と大きく異なる点がある。それは、肖像の上部に賛が加えられていることである。この賛は、如電の依頼により長英の漢詩を、かつての宇和島藩8代藩主であった伊達宗城が書いたものである。
 「夢物語」で幕府の対外政策を批判して投獄された長英は、1844年(弘化元)に牢舎(ろうしゃ)の火事で逃亡、1848(嘉永元)年に宗城にかくまわれる形で宇和島を訪れ、砲台の設計や洋書の翻訳に従事している。また、蘭学塾の五岳堂を開き、若い藩士に蘭学を教えている。単なる模写ではなく、長英と不思議な縁で結ばれた宗城の賛が加わることで、新たな価値が吹き込まれた資料といえる。

(学芸課長 井上 淳)

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