調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第137回
2023.3.18

上級生が仕立て連帯感

松山高等女学校制服

1930(昭和5)年に卒業した生徒が着用した制服。県歴史文化博物館蔵
 春は卒業と入学の季節。新しい制服に袖を通す日を、心待ちにしている人も多いのではないだろうか。
 今回紹介する資料は、県立松山高等女学校(現在の松山南高校)の夏の制服。1930(昭和5)年に卒業した生徒が着用していた。クリーム色の上着には、セーラー襟に小さなリボンが結ばれ、腰にはベルトが巻かれ、袖は長い。下はスカートで、丈は膝下1寸(約3.3cm)、襞(ひだ)の数は16前後と決められていた。
 松山南高校の沿革史や当館の聞き取り調査、アンケートにより、制服についての卒業生の思い出を振り返ると、校則を守って制服を着用する生徒がいる一方で、スカートの襞を増やしたり丈を長くしたりしては、服装検査で物差しを持った教師から注意される生徒もいたという。生徒と教師による服装をめぐる攻防は、いつの時代も変わらない。
 松山高等女学校では、5年生が教材として新入生の夏服を仕立て、衣替えの日に手渡していた。1年生は、憧れの上級生の手によって丹念に仕立てられた制服に感激したという。上級生が下級生の制服を仕立てる習わしは、裁縫技術の習得と制服費用の節約、そして生徒の連帯感へとつながった。
 この制服が着用された大正から昭和初期の教育制度では、6年制の尋常小学校を卒業すると、進学希望者は上級の学校へ進むことができた。女子の場合、2年制の高等小学校と4年制の高等女学校がある。高等女学校は家族の理解と経済的援助を背景に、厳しい入学試験を突破した女学生の通う学校であった。特に松山高等女学校は、県内唯一の5年制高等女学校としてその名を知られ、「県女」の愛称で親しまれていた。
 「〇〇高女であること」に誇りを感じる生徒たちにとって、その所属を一目で表す制服は、特別な「衣服」であった。また学校側にとって制服は、理想とする教育や女性像を反映し「学校のあり方」を視覚化した衣服である。そのため、時代の変化によって制服も変遷を遂げてきた。
 戦時下になると、学校ごとの制服はなくなり、全国統一のいわゆる「ヘチマ襟」の制服に移行していく。県内でも「他校と同じ制服に抵抗感」を感じ、「やぼったさにがっかり」した女学生が多くいた。
 本資料は、学校沿革史などに残された卒業生の思い出とともに、当時の学校生活を物語る貴重な資料といえる。

(専門学芸員 松井 寿)

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