調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第138回
2023.3.28

勤労作業を次第に受容

戦時下の女学生の日記・日誌

松沢さんが書き残した日記・日誌(県歴史文化博物館蔵)
 今回紹介する資料は、県立松山高等女学校(現在の松山南高校)の女学生が戦時下で書いた日記や夏・冬休みの日誌である。
 女学生の名前は松沢(旧姓)和子さん。松沢さんは1924(大正13)年に現在の松山市立花に生まれた。1937(昭和12)年4月に松山高女に入学、5年間の女学校生活を経て42年3月に卒業した。入学直後の1937年7月に日中戦争が、卒業直前の1941年12月には太平洋戦争が始まった。そのため、戦時色が深まる中で学校生活を過ごした。
 本資料には勤労作業に関する記述が多く見られる。中等学校における勤労作業は、日中戦争が始まった翌年の1938年6月に文部省が「実践的精神教育」として夏休みなどに3~5日の実施を命じたことに始まる。これを受けて、各学校には勤労報国隊が結成された。7月21日の日記には松山高女でも勤労報国隊の結成式が行われ、出征兵士の無事を祈って千人針の製作に4時間取り組んでいる。
 勤労作業として校内の清掃や校庭の草引き、陸軍墓地や寺社の清掃、営所(軍隊)内での洗濯や被服修理など、さまざまな作業が行われた。営所内では身動きが取れないほど傷ついた負傷兵や倉庫に積まれた「沢山の純綿の衣服」を目にすることもあった。
 勤労作業に対する心境の変化も見られる。当初は勤労作業やその他の行事で夏休みが1週間ほどしかない(3年)と消極的な気持ちを吐露している。しかし、次第に「複雑怪奇な此(こ)の世に生れ出たものゝのがれざる運命」(4年)、「非常時局に生を受けし者のみの知り得る勤労の喜び」(5年)といった表現が多くなる。勤労作業を消極的にとらえていた女学生が、次第に「運命」や「喜び」という言葉で自分を説得し、勤労作業を受け入れていく姿を垣間見ることができる。
 本資料は戦局が拡大するなかで女学生の具体的な学校生活を知ることができる点で貴重であり、学ぶべき教訓は大きい。過去への想像を膨らまし、過去との対話を繰り返すことにより、戦争の悲惨さと平和の大切さを再認識したい。

(専門学芸員 平井 誠)

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