武功や出世の履歴一覧
小松藩主一柳家先祖の由緒書き
- 「前一柳直末公同直盛公之御先祖並御一代御手柄之一巻」江戸時代(県歴史文化博物館蔵)
江戸時代の大名家は、家の由緒や先祖の功績を語り継ぐため、由緒書きや系図などを作った。本資料は小松藩主一柳(ひとつやなぎ)家の由緒書きの一つで、出自にはじまり、大名家としての礎を築いた直末・直盛兄弟の武功や出世の様子を中心に語られている。
一柳家を伊予河野氏の末流と伝え、美濃(岐阜県)に住み土岐氏に仕えて名を一柳に改めた経緯などから記述が始まる。前半は主に、直末が木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕え、秀吉の出世とともに備中高松城の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、四国平定ほか数々の合戦に参陣し、小田原攻めで討ち死にするまで、直盛とともに武功をあげる姿を記す。
後半では、跡を継いだ直盛について、関ケ原合戦での武功を中心に詳細に語られている。途中、2人の知行高増加の変遷も記されており、出世の履歴が一覧できる。また、奥書に続いて関ケ原合戦に関わる戦いで武功のあった家臣の名簿も載せる。多くの紙幅を割く関ケ原合戦が、一柳家にとって、徳川時代の大名としての由緒を語る上で特別な出来事であり、重視したことを物語る。
本資料は、初代藩主直頼以来仕えた小松藩上級家臣の黒石家に伝わったもの。実は、同族一柳家が藩主の播磨(兵庫県)小野藩にも同書が伝わっている。ともに藩主先祖の由緒書きとして重んじたようだ。
ほぼ同内容の由緒書きに「一柳武功記」「一柳家記」などと称されるものもあり、前者は黒石家にも残されている。主家の功績の記録として写本の入手を繰り返したのであろう。
奥書には1641(寛永18)年の年次記載がある。「一柳武功記」などの奥書には、同年に一柳図書(直良、一柳直盛の四男)が著したと記すものもある。これら諸本の祖本は同じなのであろう。
近世大名一柳家創出の立役者である先祖をたたえ、家の名誉を語り継ぐ記録であると同時に、家中のアイデンティティーを保つ大切な家の記憶だったともいえるだろう。
一柳家を伊予河野氏の末流と伝え、美濃(岐阜県)に住み土岐氏に仕えて名を一柳に改めた経緯などから記述が始まる。前半は主に、直末が木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕え、秀吉の出世とともに備中高松城の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、四国平定ほか数々の合戦に参陣し、小田原攻めで討ち死にするまで、直盛とともに武功をあげる姿を記す。
後半では、跡を継いだ直盛について、関ケ原合戦での武功を中心に詳細に語られている。途中、2人の知行高増加の変遷も記されており、出世の履歴が一覧できる。また、奥書に続いて関ケ原合戦に関わる戦いで武功のあった家臣の名簿も載せる。多くの紙幅を割く関ケ原合戦が、一柳家にとって、徳川時代の大名としての由緒を語る上で特別な出来事であり、重視したことを物語る。
本資料は、初代藩主直頼以来仕えた小松藩上級家臣の黒石家に伝わったもの。実は、同族一柳家が藩主の播磨(兵庫県)小野藩にも同書が伝わっている。ともに藩主先祖の由緒書きとして重んじたようだ。
ほぼ同内容の由緒書きに「一柳武功記」「一柳家記」などと称されるものもあり、前者は黒石家にも残されている。主家の功績の記録として写本の入手を繰り返したのであろう。
奥書には1641(寛永18)年の年次記載がある。「一柳武功記」などの奥書には、同年に一柳図書(直良、一柳直盛の四男)が著したと記すものもある。これら諸本の祖本は同じなのであろう。
近世大名一柳家創出の立役者である先祖をたたえ、家の名誉を語り継ぐ記録であると同時に、家中のアイデンティティーを保つ大切な家の記憶だったともいえるだろう。
(専門学芸員 山内 治朋)
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