調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第140回
2023.4.27

激動期 高杉晋作と交差

葛西辰三写真と英名録

葛西辰三写真、1868年撮影(上)、英名録、幕末。右から7人目に「高杉晋作」の名前が見える(下)。いずれも県歴史文化博物館蔵。
 今回取り上げるのは、ガラス湿板写真で、絨毯(じゅうたん)上の椅子に腰かけた人物が写っている。その頭には髷(まげ)があり、腰に大小の刀を帯び、右手に軍扇を握りしめている。
 写真を収めた木箱の蓋(ふた)表には「葛西辰三清純」と記されている。蓋裏には辰三が宇和島藩士葛西三郎大夫の三男として生まれたこととともに、「剣を以て世を遊ぶ」とある。また、「慶応四戊辰七月京都ヨリ東国江出張之節写」ともあり、この写真が戊辰戦争のさなかに写されたことが明らかとなる。
 さらには大坂心斎橋の写真家、中川信輔が撮影したことを示す焼き印が捺(お)されている。幕末期に写真技術を用いてポートレートを撮影する職業写真家が登場するが、中川もその一人。戊辰戦争に際しては、東国へ転戦する前に、大坂や京都で撮影された西国各藩の兵士の写真が各地に遺(のこ)るが、戦場に赴く前に家族のために撮影していたのであろう。剣術の腕前を藩に見込まれ、辰三は分家が許されるが、写真は剣に生きたサムライの風貌を伝えている。
 写真は宇和島藩士葛西家文書にあったものであるが、その他にも辰三関係の資料として、「英名録」2冊がある。辰三による剣術修行の記録で、1冊目は1854(嘉永7)年2月の筑後久留米に始まり、1858(安政5)年8月の江戸まで、2冊目は1861(文久元)年8月の下総古河から9月の下総佐倉までの修行の様子が記されている。辰三が九州や関東などを修行中に訪れた藩は30以上。その修行先の藩・道場・流派・師匠に加え、各道場にいた2千人の門人の名前が収録されている。
 列記された名前を目で追っていると、思いがけず有名な人物が見つかった。萩藩の新陰流内藤作兵衛の門人、高杉晋作である。辰三が萩を訪れたのは1856年。吉田松陰の松下村塾に入る1年前で、18歳の晋作が剣術修行に励んでいた時期に当たる。その後、辰三も晋作も幕末の激動の時代を生きているが、「英名録」は、2人の人生がほんの一瞬交差していたことを示している。

(学芸課長 井上 淳)

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