調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第143回
2023.6.6

平安期 雨乞いの歌収録

金葉和歌集

「金葉和歌集」(平安時代末期成立・江戸時代刊、県歴史文化博物館蔵)
 今年も梅雨の季節を迎えた。梅雨は恵みの雨をもたらすとともに、豪雨によって水害、土砂災害を引き起こす要因にもなる。その半面、カラ梅雨で日照りが続くと農作物が不作となり、飢饉(ききん)の原因ともなった。そこで、日照りの場合、古くから神仏に対して降雨を祈願する雨乞い儀礼が行われてきた。
 今回紹介するのは平安時代の伊予国における雨乞いの和歌が収録された「金葉和歌集」である。
 この和歌集は1124(天治元)年頃の成立で、白河上皇の院宣により源俊頼が編纂(へんさん)を手がけ、「古今和歌集」から数えて5番目の勅撰(ちょくせん)和歌集として成立している。巻十には伊予国「一宮」(現在の今治市大三島町の大山祇神社とされる)にて能因が詠んだ和歌が収録されている。
 能因は「嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり」で小倉百人一首に選ばれた歌人で、俗名は橘永愷 (たちばなのながやす)。988(永延2)年に生まれ、1058(康平元)年に没している。藤原長能(ふじわらのながよし)に和歌を学び、勅撰和歌集に67首が入集している。清少納言の夫・橘則光の子と能因の姉妹が結婚していた関係で「枕草子」の写本(能因本)を所持していたことでも知られている。能因は1013(長和2)年に出家した後、陸奥(東北)、遠江(静岡)、美濃(岐阜)、美作(岡山)など諸国を巡り、旅する文人として西行や松尾芭蕉らの先駆的存在でもあった。
 「金葉和歌集」には「天河 苗代水にせきくだせ あまくだります神ならば神」とある。この歌は「能因法師集」にも見られ、1041(長久2)年の夏に伊予国が干ばつで苦しんでいたことから、能因が伊予国司の藤原資業(ふじわらのすけなり)に依頼されて雨乞いの歌を奉納したところ、三日三晩、雨が降り続いたと書かれている。
 「金葉和歌集」では能因を伴ったのは資業の次の国司である藤原範国と記されているが、年代的には資業が正しいようである。能因と資業は青年期の文章生(もんじょうしょう)以来の友人であり、資業は経済的にも頼りになる存在だったのだろう。
 能因は大山祇神社を訪れ、クスノキの巨樹の前で雨乞いの和歌を書いた幣帛(へいはく)をかけたとも伝えられ、現在も「能因法師雨乞いの楠」が残され、境内のクスノキ群は国の天然記念物に指定されている。

(専門学芸員 大本 敬久)

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