調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第147回
2023.8.12

国家か自己か 募る焦燥

戦時下 女学生の日記

(上)日記を入れていた紙箱 (下)戦時中の出来事が詳細に記されている日記=ともに県歴史文化博物館蔵
 以前本紙で松沢(旧姓)和子さんが残した県立松山高等女学校(現在の松山南高校)時代の日記や日誌から勤労奉仕の様子を紹介した。その後、1940~42(昭和15~17)年分の日記3冊が新たに見つかり追加で寄贈いただいた。松沢さんが女学校3~5年時のものである。当時の日本は日中戦争に行き詰まり、太平洋戦争へと突き進んだ時期で、女学校にも次第に戦時下の影響が忍び寄っていた。今回はそのうち1941年の日記の内容を紹介する。
 同年4月、松沢さんは5年生となったが、教科書はまだそろっていなかった。国語の授業では「教科書がないので黒板に書いてそれをうつしてならふ。国民学校ですら未だ教科書の来ない学年があるとか」と記している。物資不足の影響はさまざまな面に及び始めていた。
 6月、「家事」の授業で洋食皿にエンドウ飯、ビーフカツレツ、粉ふきじゃがいもなどを盛ったが、「今年の5年生はとても損である。かしわ餅も水まんもお砂糖がなくて出来ないので残念だ」と記している。
 また、コロッケとみつまめを調理した際は、パン粉の代わりにそうめんをつけて揚げ、ご飯の中にうどんを入れた。松沢さんは「大阪で(中略)食べたランチはおうどんだけだったけれど、順々にふやすそうなので思ひやられる」と先を案じている。
 10月の防空・防火訓練では焼夷(しょうい)弾が落とされた時に伏せる形を習い、消火弾の実験等が行われた。消火弾について「いささかも効力がなく、手押しポンプも駄目で、結局バケツと私達のうでのみがたのみになった」と感想を記している。
 政府によって国家総動員体制の強化が図られる中、戦時下を実感するようになった松沢さんは、国家への奉仕、そのための進学と就職、結婚を意識するようになるが、「国家と自己をどんなに感(考)へればいゝのかしら?」と焦燥感を募らせる。
 日記からは太平洋戦争開戦直前の物資状況や将来を急に考えなくてはならなくなった女学生の心の内側が伝わってくる。今年(2023年)は戦後78年。戦争体験者が少なくなる中、このような当時を生きた人々の実感がうかがえる資料はますます重要となる。寄贈者との縁を大切に日記を読み進め、また紹介する機会を得たい。

(専門学芸員 平井 誠)

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