調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第157回
2024.1.9

在地勢力との関係記す

戸田勝隆書状

小田原出兵・方広寺大仏殿用材調達の様子を伝える戸田勝隆書状=1590年、個人蔵(県歴史文化博物館保管)
 豊臣秀吉は、1590(天正18)年の小田原北条氏攻めによって天下統一を成し遂げた。この時、すでに秀吉の支配下にあった伊予からも軍勢が動員されており、当時南予の大名だった戸田勝隆も出陣している。本資料は、合戦終結直後に勝隆から伊予の在地領主武井宗意に宛てた書状である。
 まず冒頭で、宗意が遠方まで陣中見舞いに鰻(うなぎ)を贈って来たことに謝意を述べている。ついで、合戦の結果北条氏政・氏照が切腹し、首は京都へ送られたこと、北条氏直・氏規には高野山への蟄居(ちっきょ)が命じられたこと、さらに四国衆や船手衆たちが富士山麓において京都方広寺の大仏殿建立の材木の調達を命じられていることなど、出陣先での近況を具体的に伝えた上で、ほどなく帰国できそうなのでその時に話をしたいとも伝えている。
 勝隆は、圧政を敷き在地に厳しく臨んだ大名というイメージが根強いが、実は伊予の安定的支配に向け豊臣政権の政策方針を忠実に履行する役割を担った。実際に、領内の検地を進めるとともに、その成果にもとづき配下へ知行配分を行っている。その中で、在来の中小領主たちへも知行を与えて懐柔することも忘れていない。宗意に対しては、入部直後の1587(天正15)年、早々に喜多郡粟津郷土谷山村(大洲市)の代官を命じており、旧勢力を取り込むことで、円滑な支配を目指したものと考えられる。
 新たに入部した大名の勝隆と旧勢力の宗意であるが、両者のような立場の者同士が必ずしも対立するばかりではなかったことを、本書状に見る出陣先への見舞品の進上、リアルな近況報告、帰国時の音信などは物語っていよう。
 勝隆の治世は、1587年から1594(文禄3)年の7年間と短く、家も断絶したため関係資料は限られている。小田原出兵や方広寺大仏殿建立といった秀吉による著名な出来事にまつわるこの書状は、短い治世でありながらも勝隆が築いた在地勢力との関係を垣間見ることができる、内容豊かな地域資料である。

(専門学芸員 山内 治朋)

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