調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第158回
2024.1.27

粗造を補う光沢仕上げ

黒い土器 瓦器椀

松環古照遺跡出土の瓦器椀(中央=口径15.6cm、器高5.2cm、13世紀、県教育委員会蔵、県歴史博物館保管)。
 わが国における黒い色をした土器の誕生は、縄文時代後期にさかのぼる。九州で、土器の表裏に炭素(煤=すす、煙)を付着・吸収させて仕上げた黒色磨研(こくしょくまけん)土器が製作された。黒は夜や暗闇を象徴する色でもあることから祭祀(さいし)や儀礼で使用されたものとされる。
 その後、古墳時代の土師器(はじき)の甕(かめ)や杯(つき)、高杯(たかつき)などにも黒色化したものが散見されるが、8世紀後半には、畿内を中心として、黒色土器(内黒土器)と呼ばれる器の内側だけを黒く燻(いぶ)した高台のない杯が定量生産されるようになる。内側を燻し焼きにした理由は保水性をもたせるための工夫とされており、やがて全体を黒くし器形も高台付きの杯や椀が主流となっていった。
 11世紀半ばから14世紀半ばには、主に近畿や四国北東部、九州北部で瓦器(がき)が生産されるようになり、西日本を中心に流通した。瓦器も黒色土器と同じく素焼きの土器を燻したものである。器形は平安時代の間に底部が広い杯から小さな椀の形に変わっていき、規格性をもった椀と皿の組み合わせが確立する。
 瓦器椀は、須恵器(すえき)より軟質で素地に隙間が多く、焼き締めがあまり良くない。このことから薪を節約して短時間で焼成した粗悪な焼き物と考えられている。しかし、このデメリットを補うかのように、器面の磨きを丁寧に行い、光沢が出るよう仕上げている。
 中世の村落と考えられている松環古照(まつかんこでら)遺跡(松山市南江戸)からは、11世紀後半から12世紀の土師器椀が多く出土したが、13世紀半ば以降のものはみられない。一方、それに代わるように12世紀後半から13世紀前半の瓦器椀(和泉型瓦器椀)が豊富に出土しており、大阪府中南部で生産されたものが、当地に搬入されたと考えられる。
 瓦器椀は13世紀後半には、高台が形骸化し、やがて消失するが、本資料は高台がなくなる直前の時期のものである。
 金属器・漆器等の高級食器に似た光沢をもちつつ、安価で大量生産された瓦器椀は、人々の目をひきつけ、およそ300年間で役目を終えたのである。

(専門学芸員 亀井 英希)

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