松前と誤認 発音原因か
甘崎城図(伊予国松山領真崎之古城図)
- 甘崎城図(伊予国松山領真崎之古城図)=江戸時代、県歴史文化博物館蔵
以前、本連載で別の甘崎城図を紹介した(第53回)が、今回は特徴が異なる絵図を取り上げる。甘崎城(今治市上浦町)は、大三島東岸沖の小島全体を城郭化し、南に鼻栗瀬戸、北に安芸(広島県)国境を望む要衝の海城。戦国時代末期には来島村上氏系の城で、関ヶ原合戦後には藤堂高虎が支城とし、近世城郭化したことでも知られる。
本図にも石垣や枡形虎口(ますがたこぐち)などが見えるが、本図の大きな特徴は、東は海に面し、西には湾曲する水路が通り、しかも水路には「石手川」の文字が見えることである。大三島沖なのに石手川?という疑問が当然生じるだろう。実は、本図の原題は「伊予国松山領真崎之古城図」で、松前城と認識されているのである。城の外縁に沿って海へと流れる「石手川」は、まさにその象徴ともいえる。
もちろん、実際の松前城では海は西、川は北に伊予川(重信川)があるため、位置関係が全く違う。城の特徴や文字情報などは他の甘崎城図とほぼ一致しているため、本図は松前城と認識されてはいるが、明らかに甘崎城図である。
以前紹介した甘崎城図は板島城(宇和島城)と誤認されていたが、特徴は本図とも類似する。同様の甘崎城図は他にも複数点確認でき、城の周囲の描画の違いなどから、甘崎城と正しく認識した図、宇和島城や松山城と誤認した図、松前城と誤認した図の3種類に大別できる。
松前城と誤認された甘崎城図の中には、松山藩軍学者の向井家や野沢家がかつて所有したものもある。伊予国絵図などでは松前城跡が他の「古城」より若干ながら特徴的に描かれており、松前城が松山藩の前身藩庁ということもあって、関心を寄せやすかったのかもしれない。そこに、「甘崎」と「松前」の発音が似ていることも重なって、誤認を誘ってしまったのかもしれないが、実際のところは定かでない。
見方を変えれば、数ある芸予諸島の海城の中で、本城でもない甘崎城の絵図の筆写が重ねられた裏には、藤堂時代の城という認識はもちろんだろうが、藩庁とされた宇和島城や松前城などに誤認されたことも、少なからず貢献したともいえるだろう。
甘崎城の往時の姿だけでなく、城絵図の模写と変遷を考える上でも興味深い絵図である。
本図にも石垣や枡形虎口(ますがたこぐち)などが見えるが、本図の大きな特徴は、東は海に面し、西には湾曲する水路が通り、しかも水路には「石手川」の文字が見えることである。大三島沖なのに石手川?という疑問が当然生じるだろう。実は、本図の原題は「伊予国松山領真崎之古城図」で、松前城と認識されているのである。城の外縁に沿って海へと流れる「石手川」は、まさにその象徴ともいえる。
もちろん、実際の松前城では海は西、川は北に伊予川(重信川)があるため、位置関係が全く違う。城の特徴や文字情報などは他の甘崎城図とほぼ一致しているため、本図は松前城と認識されてはいるが、明らかに甘崎城図である。
以前紹介した甘崎城図は板島城(宇和島城)と誤認されていたが、特徴は本図とも類似する。同様の甘崎城図は他にも複数点確認でき、城の周囲の描画の違いなどから、甘崎城と正しく認識した図、宇和島城や松山城と誤認した図、松前城と誤認した図の3種類に大別できる。
松前城と誤認された甘崎城図の中には、松山藩軍学者の向井家や野沢家がかつて所有したものもある。伊予国絵図などでは松前城跡が他の「古城」より若干ながら特徴的に描かれており、松前城が松山藩の前身藩庁ということもあって、関心を寄せやすかったのかもしれない。そこに、「甘崎」と「松前」の発音が似ていることも重なって、誤認を誘ってしまったのかもしれないが、実際のところは定かでない。
見方を変えれば、数ある芸予諸島の海城の中で、本城でもない甘崎城の絵図の筆写が重ねられた裏には、藤堂時代の城という認識はもちろんだろうが、藩庁とされた宇和島城や松前城などに誤認されたことも、少なからず貢献したともいえるだろう。
甘崎城の往時の姿だけでなく、城絵図の模写と変遷を考える上でも興味深い絵図である。
(専門学芸員 山内 治朋)
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