松山藩主妻通じ交流示す
大奥御年寄連署状
- 「大奥御年寄連署状」(貞寿院宛て)。紙面の左寄り上部に大きく記された「公方様、天璋院様」の文字が見える=幕末期、県歴史文化博物館蔵
大きな文字や小さい文字が入り交じった文章。その文章は何段にもなって斜めに流れている。現代人ならどこから読んだらいいのかと戸惑ってしまいそうだ。
この書状は女性が書いたもので、朝廷の女性が使う伝統的な文書のスタイルである散らし書きが採用されている。左下には差出人として万里小路(までのこうじ)以下6人の名前が連署されている。彼女たちはいずれも幕末の将軍付きの奥女中である。
一方、宛先は左上で、「貞寿院殿上ろふ(臈)方御中」とある。この貞寿院とは、田安徳川家3代斉匡(なりまさ)の娘鑅(えい)姫のことで、1819(文政2)年に松山藩11代藩主の松平定通に嫁いでいる。1835(天保6)年の定通逝去後は貞寿院と号し、1840年には江戸の松山藩上屋敷から中屋敷へと移り、1860(万延元)年に亡くなるまで、そこで暮らしている。
内容は、書状の真ん中あたりに「氷室の祝儀」の文字が読め、加賀藩邸の氷室から将軍家に氷献上が行われる6月1日の氷室の節句についての書状であることがわかる。貞寿院が時候のあいさつとして氷室の祝儀の書状を送ったのに対して、「公方様、天璋院様」とあるように、14代将軍徳川家茂(いえもち)と13代将軍正室の天璋院(篤姫)の代筆として、大奥の御年寄が返書したものが本史料になる。
大奥御年寄による書状は、天璋院の実家であった薩摩藩の奥向きに宛てたものなど、わずかしか現存しておらず、珍しい。江戸城大奥と大名家の奥向きとの交流は、御三家・御三卿のほか、将軍姫君が嫁いだ大名家などに限られていたとされてきたが、御三卿の田安徳川家から正室を迎えた松山藩も、将軍家にとってゆかりのある家として、書状を交わしていたことを物語る貴重な史料といえる。
松山藩歴代の編年記録である「松山叢談」を調べると、定通の没後、貞寿院は2度も江戸城を訪れ、12代将軍徳川家慶(いえよし)に拝謁(はいえつ)していることが判明した。貞寿院を通じた江戸城大奥との交流は、一種のソフトパワーとして松山藩の幕藩社会における地位向上に大きく貢献したものと思われる。
この書状は女性が書いたもので、朝廷の女性が使う伝統的な文書のスタイルである散らし書きが採用されている。左下には差出人として万里小路(までのこうじ)以下6人の名前が連署されている。彼女たちはいずれも幕末の将軍付きの奥女中である。
一方、宛先は左上で、「貞寿院殿上ろふ(臈)方御中」とある。この貞寿院とは、田安徳川家3代斉匡(なりまさ)の娘鑅(えい)姫のことで、1819(文政2)年に松山藩11代藩主の松平定通に嫁いでいる。1835(天保6)年の定通逝去後は貞寿院と号し、1840年には江戸の松山藩上屋敷から中屋敷へと移り、1860(万延元)年に亡くなるまで、そこで暮らしている。
内容は、書状の真ん中あたりに「氷室の祝儀」の文字が読め、加賀藩邸の氷室から将軍家に氷献上が行われる6月1日の氷室の節句についての書状であることがわかる。貞寿院が時候のあいさつとして氷室の祝儀の書状を送ったのに対して、「公方様、天璋院様」とあるように、14代将軍徳川家茂(いえもち)と13代将軍正室の天璋院(篤姫)の代筆として、大奥の御年寄が返書したものが本史料になる。
大奥御年寄による書状は、天璋院の実家であった薩摩藩の奥向きに宛てたものなど、わずかしか現存しておらず、珍しい。江戸城大奥と大名家の奥向きとの交流は、御三家・御三卿のほか、将軍姫君が嫁いだ大名家などに限られていたとされてきたが、御三卿の田安徳川家から正室を迎えた松山藩も、将軍家にとってゆかりのある家として、書状を交わしていたことを物語る貴重な史料といえる。
松山藩歴代の編年記録である「松山叢談」を調べると、定通の没後、貞寿院は2度も江戸城を訪れ、12代将軍徳川家慶(いえよし)に拝謁(はいえつ)していることが判明した。貞寿院を通じた江戸城大奥との交流は、一種のソフトパワーとして松山藩の幕藩社会における地位向上に大きく貢献したものと思われる。
(学芸課長 井上 淳)
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