調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第151回
2023.10.14

本壇の姿 多角形で複雑

蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図

(上)蒲生家伊予松山在城之節郭中屋敷割之図、県歴史文化博物館蔵 (下)本壇部分の拡大
 関ヶ原の合戦により伊予半国を与えられた加藤嘉明は、1602(慶長7)年、標高132mの独立丘陵の勝山に築城工事を始める。その25年後、嘉明は工事途中で会津に転封となるが、入れ替わるように、1627(寛永4)年に松山に入ったのが蒲生忠知である。二の丸御殿は忠知により完成したと考えられているが、1634(寛永11)年に忠知が急死、その翌年には松平定行が松山に入り、以後明治維新を迎えるまで230年余り、松平氏が統治することになる。
 松山城と城下は、加藤、蒲生、松平の時代ごとに手が加えられているが、各段階の姿を探るには、城下絵図を用いるのが有効である。ここで紹介するのは、蒲生時代の絵図で、現存する松山城下絵図では最も景観年代が古いものになる。蒲生家では1630(寛永7)年に重臣による内紛である蒲生騒動が起き、その2年後に福西吉左衛門が伊豆大島に流罪、3人の重臣も追放されている。本図を見ると、彼らの屋敷が記されていることから、忠知の松山入封時の屋敷割を示した絵図と見なせる。
 城下南部には藩主別荘の「花畠」や重臣の下屋敷、西部には忠知が菩提寺として創建した見樹院(後の大林寺)があり、この時期の城下の特徴がうかがえるが、本図で特に注目したいのは、多角形で複雑な形状をした本壇(天守がある曲輪=くるわ)の描写である。西側と東側の2段構造になっており、西側の中央には「水」と記された貯水池が見える。方形を基調とする現在の本壇の姿とは大きく異なる。
 加藤嘉明の子孫が藩主となった水口(滋賀県甲賀市)にも、本図と同じ形状の本壇を描き、石垣の幅や高さなどがさらに詳細に記された絵図の残存が判明し、現在の本壇に先行する加藤、蒲生時代に旧本壇が築かれた可能性が高まった。
 特別展「甦(よみがえ)る名城 香川元太郎城郭原画展」(2023年9月23日~11月26日)では、イラストレーターの香川元太郎氏(松山市出身)がこれらの絵図を基に考証して、江戸時代初期の松山城復元イラスト(第55回)を作成する過程を紹介している。ぜひその創作の秘密をご覧いただきたい。

(学芸課長 井上 淳)

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