調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第18回
2018.3.23

特定の身分のみ着装か

縄文時代の耳飾り

松山市の谷田Ⅱ遺跡で出土した耳飾り(縄文時代後期、県歴史文化博物館保管)
 日本列島で装身具の定着・発達が最初に確認できるのが縄文時代であり、頭飾り・耳飾り・胸飾り・腕輪・腰飾りなど多彩なものがある。このうち縄文人が好んで用いたのが、耳飾りである。
 今回、この耳飾りを調査研究の対象として四国各地を駆け巡り、触れた資料は42点に上った。それらの素材は石(蛇紋岩・滑石ほか)や土、鹿の角を用いており、いずれも着装方法は耳たぶに穴を開けて、はめ込む。これは今でいうピアスであり、現代と同じようにその時々で流行が見られる。
 上黒岩岩陰遺跡(久万高原町)の棒状耳飾りは、鹿角製であり、その両端には同心円が刻まれている。出土状況から縄文時代早期中葉のものとされ、日本列島における最古の耳飾りとして位置づけられている。
 耳飾りが全国的に定着するのが縄文時代前期で、玦(けつ)状耳飾りと呼ばれる石製のものが主体となる。本県では唯一、山神遺跡(久万高原町)で発見されている。次に登場するのが土製耳飾りである。縄文時代後・晩期に東日本を中心に爆発的な流行を見せ、西日本にも伝わってくる。
 写真の土製耳飾りは、松山市の谷田Ⅱ遺跡で出土した。耳に接する部分はすぼまり、全体は滑車(かっしゃ)形となっている。表裏面の中央には突出部を設け、そこを十字状に刻むことで花冠のような文様を作り出している。四国地方の耳飾りはあまり文様を持たない簡素なものが多いだけに珍しい。
 縄文時代の耳飾りは、単なるアクセサリーとしてだけでなく、身体に及ぶ災いを回避する意味もあると考えられている。また四国地方では一遺跡から出土する数が少ないことからも、特定の人だけが着装を許されたステータスシンボルであった可能性が高い。
 耳飾りを、一定の社会的地位を表す身分の象徴として捉えた場合、狩猟・採集を中心とした縄文社会本来の姿を探る上で重要な資料といえる。

(専門学芸員 兵頭 勲)

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