測量結果を詳細に描写
今治藩領大絵図
- ㊤1832(天保3)年ごろの実測に基づき作成されたとみられる「今治藩領大絵図」の今治城部分㊦今治城中堀と外堀の間にあった「松之本花園」=県歴史文化博物館蔵
江戸時代には数多くの絵図が作られ、利用されていた。そのほとんどが手描きで、作成目的により大きさも描き方もさまざまだった。
今回紹介する絵図は、形がいびつであるが、最大寸法で測ると、縦2.35m、横6.5mで、今治藩領のうち、越智郡陸地部にあった村々が描かれている。それも全体が残されているわけでなく、今治平野の中央を流れる蒼社川から南側のエリアが欠落している。もともとは、かなりの巨大な絵図であったことが想像される。
その描写を観察すると、村々の耕地を色分けして村域が示されている。1軒ごとの家屋が細かく描き込まれ、庄屋の屋敷にはその書き込みがある。道は赤線、用水路は青線になっており、現在は市街地化した地域でも、江戸時代の様子がよく分かる。
この絵図については、今治の郷土資料「国分叢書」に、関連する記事が見つかった。そこには、今治藩が1832(天保3)年から村境、山林境、耕地境、道路などを描いた藩領実測図の作成を開始したとあるが、この実測図こそが本図と考えて間違いないだろう。
本来なら、ここで絵図全体の画像を示したいところだが、限られた紙面。今治城が描かれた部分を掲載する。測量により今治城の姿は正確に捉えられているが、櫓(やぐら)や門などについては、輪郭線が引かれるだけなので、建物の外観はつかめない。
その一方で、中堀と外堀に挟まれたエリアには、広大な庭園が描かれている。藩主別荘の松之本花園である。敷地内には天満宮や東照宮があったが、絵図を見ると、それ以外にも大きな御殿風の建物や池水庭園が整備されていたことが分かる。
1867(慶応3)年10月16日と17日、今治藩主松平定法(さだのり)はここを訪れ、江戸相撲の力士を招いての相撲見物を楽しんでいるが、わずか数センチの描写ながら、藩主憩いの場であった花園の姿が見事に表現されている。
今回紹介する絵図は、形がいびつであるが、最大寸法で測ると、縦2.35m、横6.5mで、今治藩領のうち、越智郡陸地部にあった村々が描かれている。それも全体が残されているわけでなく、今治平野の中央を流れる蒼社川から南側のエリアが欠落している。もともとは、かなりの巨大な絵図であったことが想像される。
その描写を観察すると、村々の耕地を色分けして村域が示されている。1軒ごとの家屋が細かく描き込まれ、庄屋の屋敷にはその書き込みがある。道は赤線、用水路は青線になっており、現在は市街地化した地域でも、江戸時代の様子がよく分かる。
この絵図については、今治の郷土資料「国分叢書」に、関連する記事が見つかった。そこには、今治藩が1832(天保3)年から村境、山林境、耕地境、道路などを描いた藩領実測図の作成を開始したとあるが、この実測図こそが本図と考えて間違いないだろう。
本来なら、ここで絵図全体の画像を示したいところだが、限られた紙面。今治城が描かれた部分を掲載する。測量により今治城の姿は正確に捉えられているが、櫓(やぐら)や門などについては、輪郭線が引かれるだけなので、建物の外観はつかめない。
その一方で、中堀と外堀に挟まれたエリアには、広大な庭園が描かれている。藩主別荘の松之本花園である。敷地内には天満宮や東照宮があったが、絵図を見ると、それ以外にも大きな御殿風の建物や池水庭園が整備されていたことが分かる。
1867(慶応3)年10月16日と17日、今治藩主松平定法(さだのり)はここを訪れ、江戸相撲の力士を招いての相撲見物を楽しんでいるが、わずか数センチの描写ながら、藩主憩いの場であった花園の姿が見事に表現されている。
(学芸課長 井上 淳)
今治藩領大絵図は、絵図・絵巻デジタルアーカイブに高精細画像で公開中。
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