調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第159回
2024.2.17

優れた和歌 文芸作品に

侍従定静紀行御日記

「侍従定静紀行御日記」=1856(安政3)年写し、県歴史文化博物館蔵。
 本資料は、松山藩8代藩主松平定静(さだきよ)が、参勤交代で国元に帰国する際に記した1771(明和8)年の旅日記の写本である。
 10月19日に江戸を出立した参勤交代の行列は、東海道を西に進む。22日はまだ暗いうちに沼津(静岡県)を出ると、富士山の絶景ポイントであった浮島ケ原でちょうど夜が明けて、有明の月がさえわたっている。そして、富士山は一点の雲もない完全な姿。定静は毎年のように通り過ぎていたが、こんな富士は初めて見たと感動して、「旅衣かさねきにけるかひありてむかふもまれのよるのふしの根」と和歌に詠んでいる。
 大坂の到着は11月2日。ゆっくりと休むこともなく、翌日には陸路で進み、5日に室津(兵庫県)から船に乗っている。道中日記には、陸路を採った理由を、この海域の冬の海が荒れやすいためと記すが、この11年後には、松山藩9代藩主松平定国の乗る御座船が、実際に播磨塩屋沖で難破している。
 室津では西風が強く吹き6日まで停泊、7日にようやく船出したものの、昼から西風に悩まされて、坂越(兵庫県)に入り、8日も風待ちしている。船による移動が天候に左右されたことがうかがえる。
 その後は順調に船が出せ、13日の夕方には松山藩領の大三島の宮浦(今治市)に到着。服を改めて大山祇神社に参詣するころには日が暮れていた。清く澄んだ月に照らされた物静かな境内は神々しい景色で、一層尊く思われて、「榊葉に霜の白ゆふかけそへて月かけすめる神の広まへ」と詠んでいる。この和歌を神社に奉納して船出すると、これまでの西風がうそみたいに追い風に変わり、わずか6時間ほどで三津浜に到着。14日の午前8時には松山城に入っている。
 松山藩に関する記録、「垂憲録」には、定静の代のこととして、「此道の記の彼歌はやくも京師に達し冷泉院為村卿深く御称美有しと也」と記されており、この紀行文で詠んだ和歌の一首が、京都の公家冷泉為村のもとに送られ、その高い教養を称賛されたことが明らかとなる。筆写も繰り返され流布したようだが、定静の旅日記は、当時の文化人の間で文芸作品として受容されていたのであろう。

(学芸課長 井上 淳)

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