調査・研究えひめの歴史文化モノ語り

第164回
2024.4.27

戻らぬ家族 生きた証し

軍人遺族記章

軍人遺族記章(左)と授与証書(1944年、県歴史文化博物館蔵)
 今年(2024年)で戦後79年。今回は戦死した軍人の遺族に授与された軍人遺族記章を紹介する。
 戦死されたのは松山市出身の西森寛さん(1921年生)。1941(昭和16)年12月に入営、独立工兵第55大隊に所属して中国戦線に従軍したが、翌年10月3日に戦死された。日本をたつ直前、家族に「兄さんがかえつて来るとは思ふな、兄さんは戦地の空で御祈りして居る」と書き送っている。寛さんの遺骨は故郷に戻ることはなく、遺髪だけが戻ってきたという。
 軍人遺族記章令が制定されたのは満州事変直前の1931年8月。授与の対象者は、①戦地で戦死した軍人 ②戦地で傷痍(しょうい)を受け、疾病に罹(かか)り3年以内に死亡した軍人 ③陸海軍大臣が①②に相当すると認めた者―の遺族とされた。しかし、これらに該当していても国から自動的に授与されるものではなく、遺族からの願い出を必要とした。
 また、記章を授与されるのも遺族全員ではなく、「寡婦、子、父、母、祖父、祖母、孫ノ範囲及順位」(子と孫が複数いる場合は年長順、該当遺族がいない場合は兄弟姉妹)とされた。授与された者が死亡した場合は、前記の規定に従って継承された。
 戦死された寛さんには妻子がいなかったため、父親の秀雄さんが願い出てこの記章が授与された。証書には1944年11月6日と記載されており、戦死から約2年後の授与であったことがわかる。記章は桜花をデザインした直径2.5cmの金属製で、環によって紫色の絹組みひもと結ばれている。記章は右胸に着ける規定となっており、組みひもの上部にはピンがついている。
 秀雄さんはどのような思いで記章を願い出たのだろう。遺骨が戻らないまま、長男の戦死を受け入れざるを得なかった悲しみは想像するに余りある。この記章は国家が「名誉の戦死」を遂げた遺族に授与するものであったが、秀雄さん個人にとっては息子が生きた証しを後世に伝えるものであったのではなかろうか。記章を見ていると戦死者と遺族の思いを考えずにはいられない。

(専門学芸員 平井 誠)

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